1
あるとき、街はゾンビで溢れかえってしまった。
原因は不明。出所はどこかわからない。とにかく街の住人の半数がゾンビになってしまったのだ。これには警察もお手上げで、テレビリポーターも裸足で逃げ出すところである。もしここで義務感か、好奇心か、とにかく何かしらの理由で逃げることを選択しなかったとしたら、馬鹿なことはやめろといって引きずられる始末だろう。逃げ遅れた人間には申し訳ないが、自分の命が惜しいのだ。
「どういうことだ」
逃げ遅れた人間の一人、ロバートは教会の前で腕組みをした。礼拝堂で本を読んでいる最中、騒がしくなった外を不思議に思って出てきたら、この有様である。同じく祈りを捧げる為に空間を共にしていた妹のロウアも、何が起こっているのかわからず「さあ?」と、短い返答をするだけであった。
歩道、ゾンビが歩いている。車道、ゾンビと車が競い合っている。今、ゾンビが車に追いついた。人間や障害物をよけて進む車には、少し不利だったらしい。その様子を見ながら、ロバートは考える。
「これは神の仕業だろうか。それとも原因が別にあるのだろうか。そもそもゾンビとはなんだ。どこまでが人だと言える。一度噛まれたら終わりなのか。それとも噛まれて数時間は人のままなのか。よく熱が出るまでに抗体を接種出来たら大丈夫だとは聞いているがそれは本当のことなのだろうか。前提の知識が映画なのも問題があるな。ここはきちんと調べたうえで考えたほうがよさそうだ。だが今こうして目の前で蠢いているゾンビはどうすればいいのだろうか。目の前にいる存在に……」
考えると言うことは、思考の世界に飛び込むと言うことである。そして思考の世界からすぐに抜け出せる人間と、抜け出せない人間がいて、ロバートは後者であった。彼はぶつぶつと独り言を吐き出し続け、海の様に広大な世界をさ迷っている。早く逃げ出さないとゾンビが襲ってくるという危険信号は、深い海の底で藻屑となって、彼の思考には浮かんでこなかった。
しかし、ゾンビはロバートやロウアを襲うことなく、もっぱら斬新ともいえるような動きをする車へ向かっていくばかりだった。これには、きちんと理由がある。ゾンビは、通常の人間より聴覚が優れている。が、ある部分は衰えてしまった。音を抽出するという能力である。人は自分の興味のある音だけを無意識に抽出して、他の音より大きく聞こえるようになっているのだ。ほら、よく恋愛ものの映画とか小説とか漫画とかで、耳元で囁くように好きな人が話しかけてきた時に、周りの音は何も聞こえず、好きな人の声だけがはっきり聞こえてどきどきするなんて場面があるでしょう? それである。その機能が、ゾンビになると衰えてしまったのだ。
では、音を抽出する機能がなくなったらどうなるだろう。すべての音を公平にとらえた場合、大きい音が一番よく聞こえるという事態が起きるのではないだろうか。と、いうことは、ロバートの独り言はその辺で鳴らされているクラクションや爆発音、逃げ惑う人々の絶叫に比べたら、そよ風のようなささやきだろう。周囲の音が大きすぎるあまり、まったく存在を認知されないのである。ゾンビになって、視覚もパワーアップしていたら、ロバートを見て襲うことがあったかもしれない。だが、天は二物を与えないようで、聴覚しか進化させてくれなかったのである。そんなこんなで、ロバート達は無事だった。
そして、思考の海で「そもそも神ってやつはどういうやつだ」という方向へ、華麗に舵を切って進んでいたロバートをようやく現実に引きずり戻す事態が起きた。
「兄さん」
ロウアが肩を叩く。現実に戻されたロバートは特に顔色を変えることなく「なんだ」と、妹に聞き返した。
「アーネストがゾンビになっているわ」
「……運のないやつだ」
ハウスシェアをしていて、そこそこ関係も良好な友人、アーネスト・クラムの哀れな姿を見て、彼は静かに追悼の祈りを捧げたのだった。
2
「困ったねえ」
右も左も、動く死体で溢れかえる光景を見て、そっと扉を閉めたウィリアムが、軽い調子でそう言った。
「なんでこんなにゾンビで溢れちゃってるんだろうね。誰かが、何かしたのかな?」
誰も答える者はいない。その場に二人ほど人間はいるにはいたが、答えられそうにはなかった。
一人は、十代を半ばも過ぎた顔つきの女で、顔が青かった。着ている白いシャツの腹部が赤色に染まっていて、鉄さびの匂いがする。歯を食いしばっていなければ、今にも意識がどこかへ飛んで行ってしまいそうな状態で、話をすることは無理だろう。
そしてもう一人は、イアンという男性で、重傷の少女を支えながら汗をかいている。毛穴という毛穴からじんわりと滲む汗が不快でたまらない。だが、そんなものは気にしていられなかった。
言えない。
頭の中では、そればかりが駆け巡っていた。言えない。言わないほうがいいに決まっている。こんな理由、誰が聞いても首をかしげるばかりだ。嘘つきと言われてしまうかもしれない。嘘だったらどんなに良いだろう。もしくはこれは夢で、このまま死ぬか眠るかすれば目を覚まして、「なあんだ夢かあ」で終わることができたとしたら。だが、今ここでこうして考えている自分は、どうしても現実だった。隣でうずくまろうとしている少女、ゾーニャの体は冷たく感じるし、早鐘を打っている心臓が、とても痛い。
言えない。
言えるわけない。
街の住人がゾンビになっている理由は、自分が通う大学の教授が、パーティーにいけなかったから、だって。
「わしもパーティー行きたいんじゃあ! なんでわしは参加できんのじゃあ、ぐすんぐすん。……ふん! もうわし、怒っちゃったもんね! こうなったらゾンビウイルス開発しちゃって皆ゾンビにしちゃうもんね!」
が、この騒動の発端である。この大きな独り言を、教授の研究室の前を通りかかったイアンは聞いてしまった。そして、聞かなかったことにした。
だって、部屋の中で怪しいこと言ってる人に声なんかかけようと思う? 泣きながら怪しいもの作ろうとする教授を手伝おうとか思う? 時分は優しさをもってそっとしておくことに決めただけなんですって。
というか、そもそもゾンビウイルスが出来上がるとは思わないでしょ。いくらこの教授がヒトゲノムの解析に携わっていて、受精後七週間以内であれば胎児に直接薬を注入することで、染色体異常による障害を持った子どもを出産するリスクを抑えた薬(この薬には安全面や倫理面から様々な賛否両論があり、結構な騒ぎになった)を開発しちゃったような人だとしても。あの光景をみて一晩しかたってないし。
は! そうか。これはまだあの教授の可能性が高いってだけでもしかしたら別の原因があるかもしれない。ともかく、不確定要素は言わないほうがいい。どうして止めなかったんだと責められても困るし。
と、言うわけで、何も言えないのである。そしてつい先ほどウィリアムと交代で外の様子を見た時に、すでにゾンビの仲間入りを果たした教授の姿が見えたので、心の中でそっと教授に思いを寄せるのだった。
教授、この秘密は、ちゃんと墓場まで持っていきます。みんなも、参加したがってる人を、無理矢理参加させないようにするのはだめだよ。教授がパーティーを参加できなかった理由が誰彼構わずお尻を触って強引に人を連れて踊りだすような人だったとしても。
若干涙が出てきた。急に涙ぐむイアンに、ウィリアムが「え? 何? 知り合いがゾンビになってた?」と驚いて質問をする事態が起きて、その間だけ、イアンの罪悪感は、ほんのちょっぴり軽くなった。
3
さて、問題。リビングデッドが街中をあちこちほっつき歩いているとき、どこに籠城すれば安全だろうか。
一、ショッピングモール。これはしばらく安全な可能性がある。だが、そのうち二、三件先の家に籠城している知り合いを助けようとしたり、食料が尽きて外へ出ようとする人間が現れたりして全滅する可能性があるのでお勧めしない。
二、自宅。銃がなければ生き延びることができない。
三、軍の基地。最も死ぬ確率が高い。
ではどこが安全か。ジェシカ・アンブローズの店である。
見た目はなんの変哲もない、黄色くて四角い一軒家みたいな建物である。その実態はなんと、カフェであった。名前はカフェ・アンブローズ。営業時間は朝八時から夜九時まで。休みは店長の気分次第。おすすめのメニューは本日のコーヒー。もしくはベーグルサンドイッチ。聞けば聞くほどただのカフェである。カフェだなんてどこが安全に見えるのか。パブに逃げ込んだあの人達だって、地下道がなかったら全滅していた可能性があるんだぞ。と、思うものがいるだろう。だが、落ち着いてほしい。まず、このカフェの窓は入り口に一つだけ。そして大人の頭から腰までの高さまでしかない。これはとてもポイントが高いともいえる。入り口全面がガラス張りで、犯罪者もゾンビも窓を叩き割れば入れる様にはなっていないのだ。そして、窓は防弾ガラスである。そんじょそこらでは壊れはしないだろう。おまけに窓には面格子がつけられ、これを取り外さないと入れないようになっている。さすがにゾンビでも、これを壊すだけの力があるだろうか。しかもダメ出しに、内側からはシャッターが下りている。店じまいするときのあのガラガラ音をたてて降りてくるあのシャッターだ。それが窓についている。おかげで内側の様子が見えることはなく、人がその中にいるかは外からではわからない、窓から侵入することはたやすくないといえる。
では、扉はどうだろう。どうやら、扉は木でできているようだ。簡単に壊せるかもしれない。死んで思考が単純になってしまった彼らは、「窓がだめなら扉から入ればいいじゃない!」と、思い、群がるだろう。残念なことに落とし穴がそこにはある。そう、落とし穴が。
「困ったわねえ。これじゃあすぐに埋まって大変なことになるわ」
店内で扉の横の壁にある服かけを、一つ引っ張るジェシカ。その途端、外にいたゾンビの足元がパカッと開いた。落ちるゾンビ。既にいくつかのゾンビが落ちていて、山の様になっている。そして今、山の頂にゾンビは華麗なる着地を、決められなかった。落ちた後は転がって坂を下り、落とし穴の端の方へいってしまった。
まあ、扉のほうも実は金属製の防火扉のようなものが備わっていて、もし木製の扉を突き破ったとしても防火扉に思いっきり体を押し付ける形になるだけなのだが。
「とりあえず食料も水も地下シェルターもあるし、机でバリケードもはっておいたから、しばらくは大丈夫だとは思うんだけど……」
ジェシカ(イェシカと呼んでくれないと無視するところがあるので、ここから先はイェシカと記述)は、店の中に逃げ込んできた人に向かって、右手を頬にあてて、話しかけていた。
「でも、やっぱり困ったわ。これからどうしようかしら」
4
緊急事態に陥ると、人は普段からしている行動を、とろうとするらしい。異常な精神を正常に戻すために、正常な精神で行動していた時と同じ状態にする。
ごく、一般出的なことだ。トニー・ターナーと言う男も、例にもれなくそういうことをする人間の一人であった。だが、彼の最大の過ちは、通い詰めているカフェ・アンブローズへ赴いたということである。
そこでは――
「死後硬直開始、っと。だったら今は死後二時間とかそのあたりになるんか?」
「彼らのおなか、パンパンだね。ね、ゾーニャ」
「……聞いてくる暇があったら、イアンを手伝いなさいよ」
「ああ! 黄金の鉢は壊れ、魂は永遠に飛び去った!」
などなど、なんだか妙にゾンビが出現した問題を解決すべく、躍起になりすぎて目を血走らせながら解剖している医学生と、重傷人をからかいながらゾンビの腹に針を立てている青年と、息も絶え絶えで喋らずに傷をいやす方に専念したほうがいいのではないかと思われる、腹部が血に濡れて真っ赤になっている少女。それからその周囲を楽しそうに踊って回る女性や無数の捕らえられたゾンビがいて、一言で表すと混沌としていた。
カオスだ。いや、地獄かもしれない。異常事態極まりない。なんなら匂いですら、腐臭と鉄さびの匂いが普段のコーヒーの匂いといい感じにブレンドされて、大変なことになっている。
コーヒーを飲んで、心を落ち着かせようとしていただけなのに。
頭を抱えながら項垂れる。そしてここへ来るまでの道中のことや、仕事のことも思い出してしまい、更に頭が痛くなった。
あれだけ部下に口が酸っぱい通り越して苦くなるほど始末書を増やすなと言っていたのに、自分が増やす羽目になるとは思わなかった。しかも、理由がゾンビで。報告書になんと書けばいいのだ。嘘偽りなく「ゾンビが契約先の会社に現れて大パニック。仕事になりませんでした」と、書けと?
無理だ。自分だったらまずこれを書いた人間の精神状態を疑う。疲れはどうだい? 休みは取れてる? そんなことを聞くだろう。一体どうすればいいのか。もともと後ろ向きな性格もあるため、あれこれ考えて頭痛の種ばかり増えていく。
「ご機嫌斜めだなあ。坊ちゃん」
ふと、今まで空気の様に存在を消していたニコルという、トニーの会社の下請けみたいなことをやっている人物が、トニーのすぐ横に立っていた。普段通りのトニーに声をかけるときの呼び方で、少し安心……とは全然ならずむしろ苛立ちが募った。
「うるさい」重苦しい声を出しながら睨んだあと、ため息を漏らす。
「始末書とか、明日のこととか考えて憂鬱になってただけだ」
「おーおー。疲れてんな。で、始末書とか明日のことって?」
「そんなこともわからないのか。ゾンビが現れたせいで仕事ができなかったことを会社に報告しなくちゃいけないだろ。あと、明日どうやって仕事へ行くかも考えなければいけないし……」
「……なあ、坊ちゃん」
ニコルはもう一度、トニーを呼んだ。坊ちゃんと言うなと思いながら「なんだ」と応えると、ニコルは考えるように言った。
「店の外がゾンビだらけなら、会社の人たちもゾンビになってるんじゃねえの?」
「……可能性はある。だが、それがなんだ?」
「皆ゾンビになってるなら、仕事ないんじゃね?」
「……」
「てか、こんだけ街が大混乱になってんなら、仕事休んでもばれなくね?」
その話を聞いている間、トニーの脳内では、様々な記憶が浮かび上がっていった。「こんなくそ田舎、出てってやる」と心の中に誓って以降、バイトと勉強に明け暮れたミドル、ハイスクール時代。なんとか金を貯めて、イギリスの大学に進学してからも、学費の高さと勉強の辛さは変わらず恋人ができても勉強とアルバイトを優先する日々。そのせいでバイトと勉強と私、どれが大事なの! と恋人に言われ破局した覚えがある。今の会社に入ってからは、研修や出張で消える休み。無茶ぶりを言ってくる上司。始末書の数が自慢で、ミスをしても「めーんごっ」と舌を出しながらウインクしてくる、殴りたくなるような顔の部下(実際、いつも殴っている)。そして、明後日でちょうど三十連勤を達成しかけている仕事のスケジュール。
思えば、働いてばかりいた。金を稼ぐためには労働する必要があったからである。そのせいか、仕事というものは生きている間ずっとあるものとばかり思っていた。だが、もし、ニコルが言っていたように部下も上司もゾンビになっていて、仕事どころではなかったら? 仕事を休んでも良かったとしたら?
気が付いたトニーは、ふらり、と力なく立ち上がった。それからやはり重力に負けてしまいそうなくらい緩慢とした動きで両腕をあげ、
「自由だ」
と、失せた表情とこれまた覇気のない声を漏らすのだった。
「あ、うん。そうだな」
隣にいたニコルはまずいことしたなあという顔でトニーを見つめている。変なスイッチを押してしまった。ような気がする。
などとニコルが少し考えている隙に、トニーはゾンビと同じ足取りで店内の奥へと入る扉をあけ、さらに床下収納の扉をあけ、そこから見えていた階段をよろよろと降りて、数人が仮眠をとっている地下の部屋へはいると、ベッドの上に勢いよく倒れ、
眠って、
眠って、
深い眠りについて、
目を覚ましたころには、ほとんど終わっていたという。
5
突然だが、伝説の幼兵という言葉をご存知だろうか。
傭兵でも、用兵でもなく、幼兵である。誤字かと思われるが、そうではない。インターネットの中で生まれ育った言葉の一つで、あるゲームに登場する小さな子が、罠を作り敵を罠に嵌めるための誘導から、声を出して相手の注意を一瞬、こちらへ向けてやってこようとする間に、物陰へ隠れつつ移動するなど、大人でも難しいだろうことをやってのけてしまったことで与えられた言葉である。頭脳と勇気はもはや常人の域を脱し、なんなら動きすらも無駄のない洗練されているのだ。まあ、コントローラーを持ってスーパープレイをやっているのは、大抵大人なのだが。
しかし、フィクションではこういった存在は多く確認されている。盾を持ったアメリカの大尉なんて相棒に小さな子供を連れているし、亀ですら十五歳で忍者として戦っている。某国の北側にあるくせに南という名前が付いた街が舞台の作品では、十歳でミサイルランチャーを手にいれて打とうとしたり、戦争を止めようとレジスタンス活動をしていたりするのだ。ティーン以下の子は戦う運命にあるらしい。
そんなこんなで闘う少年少女の話が沢山生まれ出ている世界でのこと。突如としてゾンビランドになったある街で、十代前半の兄弟二人と、その両親との計四人が、この事件を収束するために、幾多ものゾンビと闘いながら街を歩き回るリアルバイオハザードを繰り広げていた時だった。
その四人の中うちの一人の少年が、ある事に気が付いたのだった。そしてなんと、この地獄の中でひとまずはゾンビに襲われない方法を思いついたのである。この方法は確実で、うまくいけば核爆弾を落とされて街が焦土と化す心配もなかった。
ところが不運なことに、そのことを家族に伝える前に、四人の前に倒しきれないほどのゾンビがやってきて分断されてしまう。彼の思い付きはしばらく、一緒に逃げた同じ年の兄だけしか知られていない、秘密の情報になってしまった。
だが、そんな少年の話ではない。
また、ゾンビがまだ蔓延っていない、飛行機であれば二時間、人の歩みだと一日以上もかかるだろう遠いところで、ある少年が街にゾンビが大量発生したというニュースを聞いた。テレビに映っている街はなんと、最近仲良くなった叔父が住んでいるところで、少年は歩き回るゾンビの独りになっていないか心配になり叔父に電話する。が、まったく繋がらなかった。
そのため、大好きな叔父を助ける為に、友人の「落ち着け」という制止の声を振り切って家を飛び出し、親よりも信頼している大人のいるところへ、ゾンビの倒す方法を聞きに行こうとしていた。
しかし、その少年の話でもない。
この度の話は、そんな彼らの事情も知らずに、ふらふらと歩き回っている、ゾンビになってしまったアーネストの話である。
アーネストがゾンビになった理由は地球上で一番深いと言われる海溝をも上回るものがあるが、今回は割愛しよう。問題はゾンビになってからなのだ。
ゾンビとはどういう状態か。これはある二人の神経学者がこう述べている。意識消失脳活動低下障害。つまり、意識がなく、動きがおっそろしくゆっくりになってふらふらと動く、ということである。
これはまさしく、アーネストの今の状態、ぴったりであった。
人が脳と言われるとよく想像するしわしわの大きな固まり部分、大脳が意識の事を大部分司っているのだが、ここをウイルスにやられてしまったため、意識はないし、ものの見方や色々な部分が大部変わってしまった。
人間とゾンビと生物を見分ける能力はあるが、人の顔を見ても誰が誰かなどの区別はつかないし、会話の内容も、宇宙人とであってしまった時みたいに聞こえる。その上自分が話す言葉も、どこか遠い昔に使われていたが滅びてしまった言語が、勝手にすらすらと出てくるという状態になっている。
嗅覚はなんとなく生きた人間と死んだ人間の区別くらいはつくが、やはり視覚同様に、この臭いは火薬の香りだとか、プールのあの独特な塩素系の臭いとかは区別がつかない。区別がついたとしてもそれは「美味しそう」と「ほとんど無害」と「なんかやばい」の三つくらいに分類されているだろう。因みに、プールと火薬の臭いはほとんど無害に分類されていることが多い。
そんなこんなで彼は今、自分がどういうわけかわからない状態であった。だからどうすればこの夢遊病な状態から抜け出せるのか分からなかったし、これから自分がしようとしていることも、起こることも、露ほども予想することはできなかったのである。
例えば、白髪混じりで三白眼の、教会の牧師が着ていそうな服を身に纏っている青年と、その青年を可愛らしい女性にしたような人間が、ロープを持って、背後からにじりよっていることなど。
***
優しい人間は、時にその優しさから斜め上の発想をする。これがまだ、自分だけでも助かるという非情さも持っていれば少しは普通に逃げ出すという選択が考えられていただろう。こんな非常事態で、ゾンビになった友人を生け捕りにして助けようなどとは決して思わなかったはずだ。
しかし、ロバート・ハンソンとその妹、ロウア・ハンソンは大変慈悲深く、優しい人間であった。ゾンビとは言え、友人である彼を放っておけない。治療法は必ず見つかるはずだから、その時まで人を食い殺すなどという罪深き行為をさせないようにしよう。自分たち、一応教会の牧師の子供なんだし。そんな理由から、今もこうして友人のアーネストを生け捕りするために、長いロープの端をそれぞれ握っているのである。
「いいかロウア。一、二の三だ。俺が右に回ってお前が左に回る」
「わかってるわ兄さん一、二の三で左ね」
聞こえないように、二人は小声でやり取りをしていた。が、アーネストの耳には、米を洗うときに食器用洗剤を入れている人物を見て金切り声をあげるのと同じくらい当たり前のごとく、バッチリと聞こえていた。人間の時は八十パーセント以上視覚に頼っていたが、ゾンビになってからは聴覚や嗅覚などにも頼ることにしたからである。誰が何を言ってるのかはさっぱりわからないが、自分たちより熱が高くて栄養価が豊富な何かであることは間違いない。アーネストはすかさず同じ運命を辿った仲間しかいない前方から、まだ命運の尽きていない人間のいる後方を振り返った。
「しまった」
ロバートが低い声で呻くように呟いた。と、同時に「兄さん。一、二、の」と、ロウアがロープを引っ張りながら左へ走ろうとしている。ロバートは感心した。いつもマイペースで他人と波長を合わせることがほとんどなく、いつも遅刻しそうなくらいゆっくりと動く上にどこか他人に対し冷ややかというか、あっさりレモンの汁がかかったゆで卵みたいに淡白でしつこくないあの妹が、同居人の事を考え、諦めずに助けようとしている。そうか。それほどまで彼を助けたいか。妹の常ならぬ行動に胸が熱くなるのを感じた。だとすれば、兄がすることは一つしかない。
「三。今だ!」
かけ声をあげ、打ち合わせ通り、ロバートは右にロウアは左に駆け出した。こちらへやや速度をあげてやってくるアーネストの目の前に、一本の張りつめた縄が表れる。気がつかずにそのままロバートの方へ歩くアーネスト。「こっちよ」今度はロウアの方へ歩こうと向きを変えた。
さて、ここまでの行動で皆さんはすでに、ロバートとロウアの二人が、何をしようとしているのか薄々は予想がついたのではないだろうか。まあ、すでに縄と生け捕りという言葉が出ている時点でわかってはいたと思うが。
そう。彼らはロープでアーネストをぐるぐる巻きにするつもりだった。縄の芋虫になってしまえば、噛まれることと芋虫のような動きをして暴れるのをどうにかすればいいだけになる。手足の拘束は、あらゆる四足、または二足の生物の抵抗、逃走、攻撃を防ぐ一番の策なのだ。治療薬が見つかるまでの辛抱といえる。なんなら、あの有名なコメディ映画の様に、ほとぼりが冷めるまでこのまま、という手もある。とにかく、四肢をどうにかしておけばいいのだ。切断するという以外の方法で。
だが、彼らの思惑は虚しくもうまくいかなかった。確実に点が取れるであろう問題で誤った解答をしてしまった(例えば、「起きるかわからない事をあれこれと悪い方へ心配することを○○苦労と言うか」という問題で、どういうわけか「取り越し苦労」ではなく、「年越し苦労」と書いてしまっていたような感じ)時のように、予想通りに事が運べなかったのである。その、思い通りにならなかった原因として、他者の介入があるかもしれないという事を失念していた事だろう。アーネスト以外にも、こちらへ向かってくる、大勢のゾンビたちが、彼らの行く手を阻んだのだ。
「囲まれたか」
あまりに驚き過ぎて普段から聞き取りやすく、張りがある割になんかのっぺりしていると言われる声が、さらに平坦とになった。輪の中心でロウアと背中合わせになり、どこかに逃げられる隙や使えるものがないか目で探す。だが、どこにも逃げられそうな隙はない。横をすり抜けた途端、骨がむき出しの手が伸びてロバート達を捕まえることだろう。ここはほとんど道路の真ん中で、壁もフェンスも、車もありはしなかった。しくじった。ロバートは口の中の苦味を感じながらそう思った。
もし、ここで助かる方法があるとすれば、ゾンビが注意を向くよう誰かがおとりになるか、もしくは爆発か何かでゾンビたちが消え失せるかくらいだろう。そんなことはありはしない。そう思っていた時だ。
「ふせてー!」
何処からか子供の声。そして、ゾンビの足元に投げ込まれた、丸くて黒い、光る何か。
瞬間、ゾンビの隊列に穴ができた。その隙を逃さず、ロバートとロウアは空いた穴の真ん中を通る。
「ロバートさん、ロウアさん。無事でなによりです」
「ヤッホー。二人とも噛まれてない?」
目の前に現れたのは二人の少年。真っ黒な肌をしてくりっとした瞳が印象的な礼儀正しい少年はジョージで、肌は白くそばかす交じりの陽気で人懐っこい笑顔をした少年はクエンティン。ロバートの知り合いだった。
そしてこの二人は実は、ある法則性に気が付き、ゾンビに襲われない方法を思いついた二人でもあった。
6
「ずっと気になってたんだ」
息をひそめるようにして、ニコルが話しかけてきた。
それは、店内にいた人がトイレか、仮眠か、またはどこかぼんやりしていた時のことである。
胴体から切り離され、動かなくなった指や脚を監察することに集中していたイアンは、ニコルの声が聞き取れなかった。短く気の抜けた返事をする。と、ニコルがもう一度、机の上に腰を下ろし、腕組みをしながら言った。
「気になってたんだよ」
「何がです?」
「なんでお前が必死なのか」
変な声が出そうになった。それを喉を鳴らしながら飲み込む。毛穴の一つ一つが開き、冷や汗がでる感覚を肌は敏感にとらえ、気持ちが悪くなってきた。
「そんな風に見えますか?」
そう聞くと、なんとなくだけどな、と、釈然としない顔。
「確かにお前は医学生な上に研究が好きで、こういう変なことが起きたら解剖とか監察とか、とにかく何かするだろうなとは思うんだよ。この前だってインフルエンザウイルスの新型を見つけたとか言ってお眼目きらきらさせながらなんかしてたってアーネストから聞いたし」
でも、とニコルは続ける。
「今回に限ってはそれだけじゃない気がするんだよな。なんか、犯行現場に凶器を忘れた犯人が、隠すために現場に戻って必死に凶器を探してるっていうか。部下がミスって尻ぬぐいをするために必死になってる時のトニーみたいな。そんな感じがする訳よ」
「……」
「ただの勘だからなんとも言えねえけど。──って、顔怖いな」
気が付くと睨みつけるような顔で、イアンはニコルを見つめていた。実際、睨んでいた。
ニコルの勘はとても鋭い。その鋭さは針などとは比べ物にならないほどである。さすが、伊達に人を騙す仕事をしていないと言えるだろう(こう言うと人聞きの悪いこというなと怒られるため、誰も言わないが)。そして、その勘が自身に突き付けられた時、人々はとても焦ることになるのだ。
別にやましい事をしているわけではない。そもそも、今回の犯人は教授であって、イアンではないのだ。イアンはたまたま教授が何か良からぬことを考えていたのを知っていただけで、それが完成するとは思っていなかったし、出来たとしても本当に彼が起こしたものなのかは、まったくもってわからない。
だが、責任は感じていた。教授が研究室で宣言していたときに止めて、どこかのパーティーへ行くなりクラブへ行くなりしてれば、こんなことは起きなかったはずである。もしくは事件が起きる前に友人のウィリアムか誰かに言えば、止めてくれる人がいたかもしれない。
──すべては、過ぎたことだ。
自分は止めなかった。誰にも言わなかった。だから今、こういうことになっている。
それで責任を感じないと、誰が言える? これは自分が起こしたことではないからと、見て見ぬふりをするのは、とても簡単だ。しかし、このままでは被害が拡大する一方だ。だったら今、誰よりも情報を持っている自分が、どうにかしなければいけない。そう思ってイアンは必死に彼らを刻み、解剖し、観察し続けた。すでに濁った目玉を取り出し、背骨を折り、神経を傷つけてもみた。
そして真実を知ったら、怒られるかもしれない。真実を言っても、どうにもならないかもしれない。そう思うと、誰かに言うのはどことなく憚られた。隠した方がいい。この問題は、一人で解決すべきもので、決して誰かに知られてはならないし、おくびにも出さないようにしよう。そう思い、ここまできた。
だが、ここへきて、表皮の下に隠した秘密を暴こうとする人物が現れた。そして、的確にイアンのもろい皮膚を食い破った。
言った方が、いいだろうか。
葛藤が、逡巡が、意志の迷いが、体内を駆け巡る。きっと、ニコルに言えば問題を解決するために考えてくれるだろう。ウィリアムも、イェシカも、寝ているトニーも、ここにはいないアーネストやロバートすら巻き込んで、何かいい方法はないかと解決の糸口を見つけてくれるはずだ。そうすれば、自分の負担は少ない。場合によっては、教授がこのウイルスを作った研究室に行くことができるかもしれない。なにより、肩の荷が下りる。
それはとても魅力的な提案。すぐに飛びついてもいいくらいのもの。
けれど本当に、それでいいのだろうか。
「ま、いいや。無理に言わなくていい」
イアンが迷っている間に、ニコルはそう言って皮手袋がはめられた掌を見せてきた。
その言葉に、このままではだめだと、どこかで警鐘が鳴り響いた。言った方がいい。せっかく告解するチャンスを与えられたのだと、焦ったイアンが顔をあげた時、ニコルの背後で何か、恐ろしいことをしている様子が見えた。
「♪~」
ニコルによく似た、しかし見れば見るほど似ていないと感じる人物、アデルが鼻歌を歌いながら、何かと戯れている。
それは数時間ほど前、捕まえてきたゾンビだった。這いまわる廃人の縄をほどき、舞踏を始めようとする真っ最中で、これには思わず恐怖から悲鳴のような怒声をイアンは出さずにはいられなかった。
「お前、何を!」
その怒号に、アデルは笑いながら応えた。
「さあ、踊りましょう!」
7
「それは本当なのか?」
「試してないけど、本当なんだって!」
「信じがたいとは思いますが、今は弟を信じてください」
「けれど、それが本当だとしたら、確かに被害は抑えられるわね」
ロメロ系とか呼ばれることのある民族に追われながら、ロバートとロウア、ジョージにクエンティンはあることを話していた。
そのあることとは、今追いかけてくる民族と和解することはできないが、少なくとも追われて噛みつかれる心配はないと言ったことだった。
だが、それはすぐにはできないらしい。いや、やろうと思えばすぐにでもできなくはないが、確実に成功するとは限らないからだ。そうなると今の状態では失敗した時のリスクが高い。安全を確保してから行うことにしたほうがいいだろう。そういうことで、安全な場所へ逃げ込むことになった。
そしてここでおさらいである。こんなにも新しい勇気生命体が生まれているなか、安全なところはどこだろうか。
ちなみに、最近はゾンビも読書をするらしく、ゾンビになったときの作法を紹介した本もあるため、それを踏まえて答えなさい。
一、墓地。自ら墓穴を掘ることになる最高の穴場スポット。
二、商業施設。ガラスを絶え間なく小突かれるという恐怖の体験を得たのち、気が狂いそうになって出ていく可能性がある長期戦だとじり貧な場所。
三、ベッドの下。居場所の取り合いになるゾンビにも人気のスポット。
正解はイェシカの家である。彼女は何を隠そう、ゾンビのために作られたお作法に関する本を、ゾンビが大量発生するより前に読んで、対策を考えた人間だからである。窓は一つ一つが防火扉と同じ構造になっていて、レンガをたたきつけようが屈強な肉体で突進してこようがびくともしない作りになっているし、まず音も光も通さないので中に人がいることに気が付きにくい状態だ。
また、万が一にも壁をよじ登って二階から侵入されないよう、鼠返しや窓の防火扉をつけ、やはり侵入しにくいようになっている。そして、人間が中に入るときは、一旦周辺のゾンビを片付けるために、お手製のちょっとした何かもある。まさに、ゾンビが現れたらもってこいの場所なのだ。
だが、それはゾンビが家の中におらず、または拘束されて動けなくなっている状態の時の話だ。
そして今の状態は、ゾンビが中にいて、拘束を解かれた状態だった。
しかし、四人はその事を知らない。そうとも知らず、彼らはその危険地帯へ足を運んでいたのだった。
8
「逃げるぞ」
「けど地下室に危険が!」
「あいつらが床下収納を開ける記憶を持ってるなら、な──っと」
どたばたと音を立て椅子とテーブルを、いろんな意味で解き放たれた存在に向かって投げながら、出口を目指す。イアンがこじ開けようと扉をおすが、あまりの重さでびくともしなかった。
「ふーんふーん♪」
そんな中、アデルは踊る。蝶のようにゾンビをよけ、楽しそうに鼻歌を歌いながら。
「我が妹ながらやべえことするよな」
「本当ですよ! 何してくれとるんですか!?」
「まあ、最後に一人になって孤独で死ぬよりも、今のうちに仲間入りして楽しくゾンビライフを送るってのも、一つの手だもんなあ」
「俺は嫌や。そういうの」
「あ、ちなみにそれ、ボタン押せば開くぞ」
そう言うことは早よ言え、と、堪忍袋の緒どころか脳みその血管が切れそうになったが、言葉にするのではなく行動の勢いに変換することにした。つまり、勢いよくボタンを押したのである。
すると、あれだけ動かなかった扉が音すらおいていってしまいそうな勢いで外側に開いた。そしてあまり聞きたくない音が聞こえた。聞かなかったことにして飛び出す。
「出たのはいいですけど、これからどうします?」
「そうだなあ。アーネストが無事なら、アーネスト呼んで車に乗せてもらって逃げるか」
「それ本当に逃げられるんです?」
「おっと、うちの部下のドラテクをなめてもらっちゃ困るぜ」
言うが早いが、ニコルは走りながら、スマートフォンの画面を見た。
こと、安全で快適なドライブをするにあたっては、アーネストの右に出るものはいないだろう。彼の運転技術は法定速度を守っているにも関わらず、ギャングなどの追手から逃げることができるくらい安全なのだ。警察にもギャングにもどちらにもお世話になりたくない一心で身に着けた彼の涙ぐましい努力の結果である。
これはゾンビにも有効ではないだろうかというところが、ニコルのひそかな考えだ。道は確かに食い散らかしや燃えている車で溢れかえっている。だが、それくらいならなんとかなるだろう。あいつのことだ。気持ち悪いごめんなさいと言いながら、食い散らかされたものたちの上を、車内を揺らすことなく通るはずだ。それができると思っているくらいには、ニコルは彼の腕を信頼していた。
しかし、それも彼が無事だったらの話である。だが残念な話。彼はすでにゾンビの仲間入りを果たしてルームメイトを追っかけていた。
9
「あともう少しだ」
次の角を曲がるだけ。そうすれば五十メートルもしないところで、イェシカの家にたどり着けるだろう。不意に気が緩みそうになる。実際、一番後ろを走っていたクエンティンは、かなり気が緩んでいた。この前やっと十一歳になった少年が、今まで緊迫した状態でいられたことが、もはや奇跡に近いのだ。たまたま元軍人の両親からそういう訓練を受けていたからこうして逃げきれていただけなのだ。
だからこそ、クエンティンは絶望した。
安全だと思われていたイェシカの家から、イアンとニコルが飛び出してきて、後ろには複数のゾンビがついてきているということに。
対して、ニコルはスマートフォンに気をとられていて、あまり周囲をよく見ていなかった。
走りながらの操作というのは、とても難しいものである。一度試してみてほしい。画面を見ながら後ろのゾンビを気にして指をぽちぽち、足をばたばた動かしてみることを。きっと失敗するはずだ。何度もホームボタンへ立ち返り、同じ操作をすることだろう。
とにかく、一度でもいいから呼び出しのボタンを押せたらいいのである。そうすれば、あとは全力疾走して、安全なところに身を隠して、アーネストの連絡を待てばいい。暗くなる前に連絡がない場合は街を出るのもいいだろう。それをするためにもまず、とにかく、電話帳の中からアーネストの名前を見つけて、緑のボタンを押せばいいのだ。とりあえず今は電話帳のEのところまでいった。その、二番目か三番目かにアーネストがいるはずだ。
しかし、前方不注意とはよく言ったもので、車の事故も、人にぶつかるのも、周囲を見ることをおろそかにした結果起こるものである。
「危ない!」そう叫ぶ声が聞こえ、気づいて前を向いたころには、ロバートとぶつかりそうになっていた。
***
ここで、話は一度数時間前にさかのぼる。
時計はてっぺんをちょうど通り過ぎたころ、アーネストは大学の研究棟の廊下を歩いていた。
と、言うのも、図書館での勉強が終わって家に帰る途中で教授に捕まったからである。
研究の手伝いをしてほしいと、頼みがらも単位をちらつかせ脅してくるという卑劣なやり方をされたら、逃げようがなかったのだ(よく考えると、教授の授業を一つもとっていないので断ることもできたのだが、そこまで考えが至らなかった)。人生にはあきらめも肝心。そう言い聞かせ、アーネストは薬品の入った箱をもって、廊下を進む。
深夜なので当たり前だが、辺りは暗く、気味が悪い。フットライトの灯りだけが心の支えだった。
研究室につく。ここだけは明かりがついているようで、扉から光が漏れている。安堵のため息をつきながら中に入ると、ちょっと小太りの眼鏡をかけた茶目っ気溢れる笑顔の初老の男性、つまり教授が快く出迎えてくれた。
「おー。例のものを持ってきてくれたか!?」
小躍りするかのような軽快なステップで、教授が近づいてきて、アーネストから箱を奪い取った。その勢いの良さに箱の中のものが壊れたり、零れたりしないかと一瞬ひやひやしたが、教授が取り出した瓶にはひびは入っておらず、一先ず安心した。
「ふっふっふ。さあ教授の三分? いや、二時間クッキングの時間じゃよ」
眼鏡をきらりと光らせ、怪しい笑顔を浮かべる。教授。それはさながら悪魔を召還して誰かを呪おうとする邪悪な魔法使いのようで、アーネストは恐怖で震えだした。
「そ、そういえば、今から何を作るんです?」
アーネストは、恐怖を紛らわそうとして教授に聞いた。
そして、教授の長い演説のような説明を聞いて、一気に照明が暗くなったのを感じた。それから、彼は教授に気付かれないよう、そっとスマートフォンのボリュームを最大にまであげた。
どうして、彼はスマートフォンのボリュームを上げたのか。疑問に思うものもいるだろう。それは簡単に言うとこれから起こる事件と、その事の顛末を知るうえで最も重要なことだったのである。
彼は、誰かに電話してくれることを願ったのだ。そうすれば、着信が鳴る。音楽が流れる。ちなみに着信音はスリーデイズマクガフィンズという、アーネストが大好きなアーティストの曲で、曲名をダンスフロアという。
この曲はダンスフロアでつい、誰もが踊りたくなるようなものを作ろうという目的で作られた。軽快で、リズミカルで、重低音が癖になる、パーティーでダンスをすることが大好きな教授も絶賛するほどの曲である。
そして音楽が流れることこそ、とても重要だったのだ。しかも、大音量であること。この二つがのちのち重要になってくると、彼は教授の説明を受けている間に気が付いたのだ。
さて、ここで巻き戻した時間を進めて、現在にかえってみよう。
アーネストの思惑通り、彼の電話を鳴らそうとした人物が一人いたことを思い出してほしい。そう。ニコルだ。ニコルはアーネストの考えを汲んだわけではない。しかし、電話をするという行動が、彼の目的と一致した。これを偶然というか必然というか、はたまた別の何かかと言うか、議論すれば究極の問いとは何かが少しでもわかるかもしれない。
だが今回は、その話しをいったん部屋の隅に投げて、彼らが動いた結果に着目してみよう。
ニコルが電話を掛けたことで、アーネストのスマートフォンに着信が入った。スマートフォンにしてはどこか音質が良い音が聞こえてきた。
そして、その音がその場にいたゾンビや人の耳に入り、鼓膜を震わせ渦巻きの中を駆け巡ったあと、電気信号に変換され、脳にたどり着いたとき──
ゾンビたちは、踊りだしたのである。
「クエンティン、お前の言った通りだった」
「でしょ! あいつら音に敏感だから、何かあるって思ったんだ!」
10
「まさかゾンビが踊るなんてねえ」
「まあお陰でこうして大学の研究室で、こうやって調べもんができるんだけどなあ」
「そうそう。一日中音楽かけっぱなしにしとけば大丈夫とかどう考えても安全すぎるだろ」
ウィリアム、イアン、ニコルは大学の研究室の窓から、その光景を見つめていた。
現在、窓の外ではライブ会場で見かけるあの大きなスピーカーが、捨てられた車などと一緒に道路に置かれている。そのスピーカーからは、体がしびれそうになるほどの重い低音が流れている。よく聞くと、流れている曲は二回ほどの足踏みと一回の手拍子でなる「ドンドンチャ」というリズムが癖になることで有名のあの曲であった。
教授は、ダンスが好きであった。パーティーに呼ばれ、好みの曲がかかると、いてもたってもいられなくくらいには、踊ることが好きだった。しかも偉い教授が来る学会の打ち合わせを土壇場で不参加にして、学生の寮でほぼ毎日行われているどんちゃん騒ぎのパーティー会場へ駆け込み参加をするほどでもあった。彼と言えばパーティー。彼と言えばダンス。自他ともに認める踊り好きであったのだ。
だが、その踊り好きの教授は昨夜、パーティーに招かれなかった。なんなら出禁までされてしまい、しばらくは大人しくするよう言い渡されていたのである。
執着とも依存ともいえる勢いでパーティー好きな教授にとって、これほど酷なことはないだろう。実際、彼は泣いて、嘆いて、ひたすら怒り、ついには狂ってしまったのである。その結果、今回の事件である街のゾンビランド化が起きてしまったのだ。
だが、教授のダンスに対する熱意は、街の住人をゾンビにするだけでは鎮火することができなかった。
要は、死んでも踊りたかったのである。
「例えば犬の鳴き声がしたとする。そうしたら鳴き声が耳から入って信号に変換されて脳に伝わるんや。で、大きくてしわしわの大脳ってところでこれは犬の鳴き声ですって言ってくれる。そしたら、他の脳の部分がじゃあこれは逃げたほうがいい? とか、逃げるんならどこがええ? とか、目からの情報だと鳴いてる犬はどうもコーギーみたいやな。とか、会議を始めるんや。で、会議が終わったら今度はその結果を、信号として手足に伝える。俺らの体の中はいつだってそういうことをして生きとるんや」
「それが今回のゾンビウイルスと、なんの関係があるの?」
「どうも教授は、その一連の流れかから、あることを考えたらしい。つまり、ある一定のビートを刻む音が聞こえたら、手と足を動かして踊るって信号を体内に送るウイルスができるかもしれんって。ゾンビになったのはその副作用や。……もしかしたらその逆かもしれんけど」
イアンは考えた仮説を二人に話す。疑わしい目で本当なのか、それはありえそうなことなのかと聞かれるが、ほぼ、無理矢理のこじつけのような仮説のため(何と言っても真実を知る人物は路上でダンスパフォーマンスを披露している集団の一人になってしまったため、知るすべがない)納得はしがたいだろう。だが、脳や人体についてはまだ明かされていない部分が多い。それを考えるとやはり、この仮説も可能性としてはあり得ると思えるのだ。
「じゃあ、あのゾンビたちはいつまで踊り続けるの?」
ウィリアムが今までとは違う質問をしてきた。その質問には、イアンは胸を張って答えることができる。
「最短で二週間くらい、やな」
「へえ。やけに自信たっぷりだね」
理由があるのかな。そう聞かれると、もちろんあった。
カフェ・アンブローズでは、彼らの解剖と観察をずっとしていた。そのおかげで、わかったことがある。
まずはゾンビの身体変化。これは死体現象と言われる人が死んだあとの変化と、ほぼ一致している。死後硬直の時間も、死斑の経過時間も、個体差はあるがほぼ人と同じだった。
だとしたらゾンビはこのまま、死体のように骨になっていくことになるだろう。すでに内蔵の腐敗は始まっているだろうから、信号を送る神経が完全に腐ってしまえば、ウイルスが彼らの体内にいたとしても動けなくなるのではないかと思った。問題としては臭いや衛生面の部分があるが、これは墓地をダンスフロアにすれば動かなくなった端から埋めていけばいいと思えた。
そこまで言うと、ウィリアムとニコルは釈然としない部分はあれども、一応は納得がいったようだった。
これでゾンビに襲われることなく、ワクチンの研究にとりかかれる。今までずっと気を貼りつづけていたイアンはやっとここで、一息つくことができた。
窓の外を見るといつの間にかゾンビや狼男がミュージックビデオ内で踊るというあの、MとJの文字が含まれた人物が手掛けた曲に変わっていた。
そして、その曲に合わせて月面歩行を行うゾンビたちを見て、イアンはふと思ったのだった。
「なんか、違くない?」
11
ビートを刻む音に合わせ、墓場にいたゾンビが一斉に片足を地につけた。両手をふらふらと動かし汗の代わりになにかよくわからない汁を流しながら、踊り続けている。
その集団の中で、一緒に踊る人物がいた。
アデルは笑顔でゾンビたちとともに、楽しそうに踊っている。
その踊りを、ニコルはやれやとした目でみながら、しばらく眠りつづけていたトニーを、アーネストのところまで連れて行った。
彼のスマートフォンの音量が最大だったおかげで助かった。そして音楽を流せばこうして踊るので襲われることもないことに気が付いた。そんな話を聞いたトニーは少し、複雑な表情をしながらアーネストを見つめる。
白くなったアーネストの瞳には、決して何も映らない。それでも何かを伝えたくてトニーは見つめ続けた。やがて、瞼が閉じられる。
次にトニーが瞼を開いたときには、別れの笑顔を浮かべていた。
「また、な」
そう言って、トニーは踵を返し、その場から去った。
それからもロバートやロウア、イアンやウィリアムなど、彼の関係者は何度も彼のもとへ訪れた。
彼に最期が訪れたのは事件から三週間が経った頃。彼が大好きだったスリーデイズマクガフィンズのダンスフロアを、踊り終えたかと思うと、電池が切れたかのように地面に倒れ、動かなくなった。
そのころには街はもう、もとの日常を取り戻していた。
***
「いやいやいや。面白かったしいい話だったと思うよ。けど、なんで俺ゾンビなってるの?」
叫びたくなる気持ちをなんとかギリギリの声量まで抑えて、アーネストは感想を言った。その感想を聞いて、立って話をしていたアデルは目を丸くした。
アデルのこの顔は、何が悪かったのかよくわからなかった時に見る顔だ。その表情を見た途端、アーネストにはどうしようもない憤りを感じた。そう確かに面白くはあった。即興で何かお話を考えてくれと無茶ぶりをしたにもかかわらず、そこそこの出来の物語を聞けたのは、ひとえに彼女が面白くしようと頭をフル回転させたからで、そこに関しては脱帽どころか頭が上がらないところだろう。
だが、自分が不運な目にあう話を聞いて面白がれる人はそうそういない。
だからどうしても、ごにょごにょと小言を言いたくなってしまうのだ。これはもう仕方がないことだろう。
「まあそういうところをアデルに求めても無駄だろうよ」
「そうだな。アデルは面白いということにしか目を向けていない」
隣に並んで話を聞いていたニコルとロバートは不貞腐れているアーネストに声をかけた。二人の慰めにもならない言葉に、アーネストの心はささくれるばかりだ。
「いいですよ。どうせ俺なんて本当にゾンビが現れたらすぐにやられちゃうような奴ですし」
唇を尖らせながらアーネストは言う。その態度にニコルが肩をすくめて、やれやれと言ったので、なんだかこっちが駄々をこねてる子供じみている気がして、更につまらなくなってきた。
「そんなに面白くなかった? 時間があったら、もっと面白くできたんだけど」
アデルがそう言って、眉を下げた。お手上げだ。これ以上の愚痴は言わないほうがいいだろう。
「じゃあさ、また今度うんと面白い話を考えてよ」
アーネストがそう言うと、アデルは笑顔になった。
「ハツカネズミを全部ぺしゃんこにし終わったら、次の話を考えるわ!」