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トニーが大嫌いな実家へ帰省するはなしです。

<主な登場人物>

トニー・ターナー

ニコル・ゲーサ

セオドア・トンプソン

​ダニエル

​Prologue

「あれがシリウス、それからプロキオン。で、あの赤い星はベテルギウス」

 真っ暗な夜空のなかで光る星は、とても眩しくてきれいだった。

 僕はそれぞれの星を指で指しながら、ダニエルに、星達の名前を教えていった。

 ダニエルは黙ってぼくの話を聞いている。たまに、「ふうん」って気のない声が聞こえるけど、彼は関心のあることや面白いことがあっても、あんまり顔に出さないようにしているみたいで、いつもそんな感じで興味ないみたいな返事をする。それを知っているから僕はまた、構わず星のことについて説明を始めた。

「プロキオンとシリウスは、冬のダイアモンドって言われている星達の仲間でもあるんだ。リゲル、ポルックス、カペラ、アルデバラン。どれも一等星と言われる明るい星たちだよ。それで、あのベテルギウスをいれるとGの形になる」

 ぎょしゃ座の白い星からはじめて、すっと指を動かしていく。青白い星や、黄色い星をなぞって、最後に指をさすのは、オリオン座のベテルギウス。赤い星。

 僕に指の軌道を、ダニエルがなぞる。途中でどこかわからなくなってしまったみたいで、「どこだ?」って聞いてきた。「ほら、あれ」って、目立つ星を追えばいいんだって指を追いかけるヒントを出す。Gの形がわかったダニエルは目を見開いたあと、「全然Gの形じゃない」って、唇を尖らせた。

 他にも、たくさんのことを話した。オリオン座と蠍座の話。こいぬ座とおおいぬ座について。星以外のことも。顎がいたくなるまで。僕はこんなにおしゃべりが大好きだったなんて、自分でも信じられなかった。いつもの僕は、おしゃべりが好きじゃない。嫌なことをぐるぐると考えちゃって、しゃべると人を不快にさせることしかいえなかったりして、話すことが大嫌いだった。

 でも、今日はとてもしゃべることが楽しいんだ。ダニエルが全然聞いてないって顔をしながらも、しっかり耳を傾けてくれているからかもしれない。

「セオ、本当は物知りなんだな」

 今までずっと黙っていたダニエルが急に話しかけてきた。僕はびっくりして変な声がでてしまった。

「俺、星のこと全然知らなかった。綺麗だなって思ったり、授業で聞いたことは覚えてたりするけど、それ以外は全然知らないや」

「そ、そ、そ、そうかな? 僕からしたら、ダニエルの方が物知りだなって思うけど」 「全然。知らないことばっかりだよ。……なあ、本当に悪いところあるの?」

 ダニエルは僕に聞いてくる。お父さんやお母さんの話だと、僕には悪い何かが入り込んでいるんだって。だから毎日きちんとお祈りをして、日曜日には教会に行って、お医者さんから貰った薬を飲んでる。悪いものを抑える薬で、神父さんに言わせると、悪魔のささやきを聞こえないようにしてくれるんだとか。

 確かに、薬を飲むと、眠れないくらい嫌なことばかりを言ってくる何かは聞こえなくなる。けど、なんだかぼんやりしちゃって星を見ようとしても見られなくなるし、ダニエル達と外で遊ぶこともできなくなっちゃう。それがダニエルにはつまらないんだろうな。バスケットボールで遊んでて、あと一点でこっちが逆転するって時に、お母さんが迎えに来たり、お父さんが薬を飲む時間だと声をかけたりしてくるから。

 

「飲んでないと怖い夢とか、嫌なこととか考えちゃうし、落ち着かなくなるから必要かな」

 あ、でも今日は薬、飲んでないけど、嫌なこと考えてない。さっきから僕は嫌なことをあんまり考えていなかった。ずっと、楽しいって思ってた。気持ちが落ち着いていて、星空がきれいで、まるで気持ち悪いくらい暖かい部屋のなかに、すうって冷たくて気持ちいい風が窓から入ってくるような感じ。  薬を飲んだ後のぼんやりして、重たくって、胸になにかがつっかえてるような、水中のなかにいるような感じもない。

 

「変なの。僕、薬を飲んでないのに落ち着いてる。……いつもこうだったらいいのに」

 そうしたら、みんなと同じ普通でいられるんだ。いつもの僕はおかしいから、みんなに迷惑をかけちゃう。

 僕も、みんなと同じように、普通でいたかった。みんなみたいに不安なことがあっても大丈夫だよって蹴飛ばして、笑っていたかった。

 まともに話せないし特技もない。気がつけば持っていたノートはぐしゃぐしゃになっているし、不安で一杯になったら、そこから記憶がすっぽり抜けて、気がついたら部屋の中はめちゃくちゃになってて、数学も社会科も苦手。理科なんてわからない。友達はいるけれど、それでもどこかで遊んでやってるって感じが強い。普通だったらそれがないんだろうなって思う。

 

 それに、お母さんとお父さんに、これ以上迷惑をかけなくて済む。お母さんとお父さんは優しくて、こんな僕でもいいんだって言ってくれる。それは個性だって。病気であったとしても、悪魔に取りつかれていたとしても、薬を飲んだらよくなるから、ゆっくりなおしていこうねって。  だから僕も、いつかみんなと同じように普通になって、お父さんとお母さんを安心させたい。いい子でいたい。

 でも、そんな僕の話にどうしてかダニエルは怒りだした。目がつり上がっていて、掴まれた腕はとてもいたかった。

 

「……お前は普通だよ。俺より物知りで、いろんなことを考えてる。この街がおかしいんだ。なんで、他人の不幸を平気で笑ってみてられるんだ。お前が言ってること、全部馬鹿にしてるんだ。おかしいだろ。それに、お前は親をかばうけど……」

 そこからダニエルは急に黙ってしまった。黙って、考えるように上や下をみて、小さい唸り声をあげた。

「……きっとお前はこの街と合わないだけで、他のところへいったら普通でいられる。薬なんて必要ない」

 じっと見つめられる。ダニエルの瞳は黄色なのか、薄い青色なのかわからない不思議な目をしている。僕みたいな緑色が混ざったような瞳じゃない。綺麗で、不思議な色だ。夜明け前の空に似てる。

 その瞳が、僕を見ていた。まっすぐ、僕を見つめて、僕のことを思ってくれているんだろうなって思う。それがなんだかとてもくすぐったい。口の端がむずむずしだして、どうしてもおさえきれなかった。

 笑うなよって今度は別の意味で怒られる。僕はごめんって謝ったけど、やっぱり、一回ゆるんじゃった口はなかなか戻らないみたい。

 

 そういえば、ダニエルは、僕と仕方なく遊んでやってるって感じ。あんまりしないな。僕といても、ダニエルは変わらない。嫌なことがあったらにらんで、それよりさらにひどいことがあったら殴って、言い返す。面白い時はニッ、て、牙みたいな歯を、だして笑うんだ。大人たちは歯並びが悪いから矯正したほうがいいって、ダニエルの両親にいってるみたい。でも、僕はその歯がみえるの、結構気に入ってる。

 

 そんなダニエルがいう言葉だから、薬が必要ないってことも、この街が合わないだけっていうのも、本当のことかもしれない。でも、お父さんとお母さんのいうことだって、本当かもしれない。まわりの人たちが僕にたくさんのことを教えてくれる。どれを信じればいいんだろう。こうやって、僕の心はかき乱されていく。あれこれ指図して、どんどんと僕を混乱させてくるんだ。

「そうだったらいいなあ」

 僕の言えることはこれだけ。ダニエルの言ってることが、本当だったらいいなって。

 それだけ。

Prologue
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 大学や会社のビルが立ち並ぶ街の中心から少し外れ、小さな家々が列をなしている住宅街の一角に、レンガ色の建物がある。

 一九四〇年代、政府が車と家を多くの人に買ってもらうために考えられ、流行した建築様式で作られた、家族向けの家だ。シンプルに見えて、真四角ではない大きな窓が特徴。その家は、道路とは反対側の方面に、大きな窓がつけられていた。

 二階建てで大学や会社に通う単身者が、アパートと似たような感覚で借りられるようにつくりは改装されている。隣にはこのアパートの大家の職務室になっている小さな家(タイニーハウスと言われている)もある。なにかあると営業時間中ならすぐに家主を呼べる仕組みだ。

 借りられる部屋はみっつ。どの部屋もすでに住人がいる。そのうちのひとつ、二階の道路側は、日当たりのよくて、小さい窓がついている部屋はベッドルームとキッチン、バスルームが一室ずつついている。リビングとベッドルームの床は白く、壁は木材ではなく石のようなものが使われていて黒かった。天井は濃い色の木の板が貼り付けられ、バスルームの壁は鮮やかな青色で彩られている。

 設備と部屋の間取りは申し分ないのに、色合いの個性が強すぎて、人の好みが別れる部屋。

 それが、トニー・ダヴィッド・ターナーという男が住んでいる部屋だ。年齢は二十代半ば、長身で、金髪で、とても落ち着いているように見える。実際はいつも疲れていて、あまり騒ぎたくないだけだった。今はとある製薬会社で働いていて、いつも忙しいと仕事のことを聞いてくる人に必ず言っている(先週も海外出張から帰ってきたばかりだ)

 何故、バスルームだけ壁を青に。しかもあんなに鮮やかに。

 その質問を家主にぶつけたことがある。トニーが大学を卒業し、製薬会社の営業部門に配属が決まり、この街に住むためアパートを探し回っていたときだ。白髪混じりで、トニーの父親より歳を重ねているだろう家主に聞くと、かっこいいだろうとふんぞり返っていた。

 それを言われて、困ったことを覚えている。かっこいいかと聞かれると家主には悪いが、あまりそうではないと言ってしまいたかったからだ。どちらかというと奇妙だ。 トニーは部屋のインテリアに関しては、中も外も幾らかは統一されていた方が好きだった。斬新なものよりも堅実で、無難な方がいい。

 しかし、その斬新な色合いを使われているアパートに反して、周囲は静かで落ち着いていて、心地がいい。

 綺麗に舗装された道路を車で十分から二十分ほど走らせれば街の中心へ繰り出せるし、プライベートがしっかりと保たれている。

 それに時々、気さくなオーナーは部屋にやってきて、トニーの好きそうな本をかしてくれるところも、トニーがこのアパートを気に入っている点だった。

 どこよりも住みやすい街で誰よりも快適な人生を。

 街ではよく張られているポスターのフレーズに「なるほど、確かにそうだ」と、思える。

 そのアパートに手紙が届いた。電話やメールなどの通信機能が発達したこの現代で、手紙が届くことはまず少ない。あったとしてもそれは、請求書か紙面に残さねばならないくらい大切なものがあるときくらいだろう。または仕事の書類か。

 両親から帰省を促す手紙など、届くことはあまりない。電話で帰ってこいと連絡をいれれば、十分だ。

 しかし、現実は、トニーの両親からの帰省を促す手紙だった。薄い灰色の封筒の中には、やけにカラフルな色合いの手紙が入っている。ご丁寧に文字の色も、黒やブルーブラックではなく、ピンク色であった。我が親でありながら趣味が悪い。これは斬新な色遣いという言葉では、到底表すことのできないくらいひどいものだ。

 そして、手紙の内容は、それを一目見ただけでトニーの心の中が暗闇に覆われてしまうくらい、トニーにとって、ひどいものだった。

 

 愛する息子、トニーへ

 妹のトリシアが結婚することになりました。ささやかながらも結婚式を考えているので一度家に帰ってきてください。また、もしあなたも心に決めた人がいるというのなら、連れてくるように。

 追伸:あなたはよく物事を忘れる子供だったから、忘れにくくするよう形に残る手紙にして連絡したわ。それから、日にちはカードに書いてある通りよ。泊まるところは我が家でいいかしら。迎えはいる? それだけは連絡をいれてちょうだい。

                  あなたの母、エイダより

 

 本題の部分だけ書いてくれていたらよかったのに。追伸は、どう読んでも余計なお世話だ。いくら自分が幼い頃は、よく間の抜けたドジを繰り返す子供だったとはいえ、さすがに今ではほとんどなくなっている。むしろ部下のうっかりミスや後片付けに、頭を抱える毎日だ。自分がドジを踏む暇すらない。

 母親のあまりの書きように、嫌悪感が喉元までせり上がってきた。その嫌悪感はいくつもの過去の記憶を呼び覚まし、どろどろとなかで沈殿して、留まっていく。

 あの家にいることがいやで、あの街が嫌いだった。自分が自分でなくなるような恐怖を、常に味わいながら育った。

 トニー・ターナーという人間は、大事なところで緊張し必ず失敗する。算数が苦手で、計算させると、必ずどこか間違えている。何度同じことを言い聞かせても同じ失敗を繰り返し、テストの成績は赤点まみれ。提出物に飲み物をこぼしてダメにしてしまったため提出できず、一度落第となりかけたことがある。

 常に不安が影のように付きまとい、通りかかった人を見ただけでも誘拐犯かもしれないと思って悲鳴をあげる。そんな、できない子供の役を、トニーは押し付けられてきた。何もできないかわいそうな子供。あまりに惨めな生活だ。

 それに抗おうとしたこともあった。しかし、できなかった。

 結局、大きな流れには逆らう事ができず、あの街にいるあいだはそうあり続けた。

 主体性は奪われた。もし、自分がなにか選択しようものなら、それを奪い取って、誰かが道を用意する。

 例えば、トニーの誕生日に、なにかほしいものはあるかと聞いてきた祖父に、指輪をめぐる冒険の本がほしいといおうとしたときだ。自分よりも母親が先に、「男の子は模型の飛行機が好きだから、それにして。トニー。もらってもすぐに壊しちゃだめよ」といわれてしまった。

 もちろん、トニーは本がほしいと母親にいい、祖父にも「この本を買って」と頼んだ。しかし、結果として祖父から送られたのは、模型の飛行機だった。

 それから、模型の飛行機はクラスのいじめっこにとられてしまい、返ってきた時にはただの木材の破片となり、結局数ヵ月のうちにゴミ箱へ放り込まなければならなくなった。

 せっかく買ってもらったのに、物を大事にできないなんて。母親がそういって、瞳をつり上がらせて怒っていた。

 他にも、そういうものが、トニーの過去にはたくさんある。なにかを選ぼうとすれば、多くのものに阻まれてしまった。そのなかで自ら選択できたものは、街から逃げることと、そのためにイギリスの学校へいけたことだ。

 そして、この街のおかげでやや後ろ向きな人生観を持つ人物へとなってしまった。

 頭の中で、人の笑い声が聞こえる。その声は、どれも冷やかしと、からかいの声だ。

 バカなやつ。なんてかわいそう。なにもさせてくれないなんていうけど、問題ばっかり起こすやつは何をしても無駄だよ。何急に大声だしてんの。お前がばかでドジで間抜けだから、おれらがこうして治してあげてるんだよ。

 駆け巡ってくる言葉。殴られた時の痛み。口の中に血が滲んだ時の鉄の味を、これでもかというほど覚えている。

 これ以上思い出してはいけない。理性が警告しているが、感情と記憶は、トニーの理性だけを取り残して次々と先へ進み、うごめいていく。体内で暴れる黒い固まりは、まるで獣だ。笑い声を大声でかき消した。人々の奇異な視線を、自身の目を閉じてさえぎった。それでも存在を主張しようと、腕を掴む人の生暖かい指の感触には、背筋に悪寒が走り手を振り払ってもがいた。

 思い出すな。動物になってしまった自分の心を押さえ付けるんだ。

 トニーは必死に髪の毛にもう片方の手をいれてかき混ぜた。煩わしい雑音と、視線、人の肉の感覚。全てが脳内で再生され、行き場をうしなった感情はまた新たな感情をうみだした。そして、歪な、あったかもわからない過去がつくりだされていく。あの頃の自分とは違うと、何度も周囲に言い聞かせるが、それは独り言として処理された。さらに笑い声が大きくなり、その笑い声の中から「いいや」という言葉を、投げつけてくるやつがいた。

 まだお前はあの頃と何にも変わってはいない。嫌なことがあると癇癪を起こして大声で喚いてる。何かあるとすぐに泣く。飛行機の模型が欲しくなかったって割りには、いらないってもっとしっかり主張しなかったじゃないか。両親のいったことをきちんと律儀に守りつづけてもいたじゃないか。何が大きな流れに抗えなかった、だ。抗う気なんて、ほんとはこれっぽっちもなかった癖に。かわいそうに。ほら、母親が待ってるよ。あんなに嬉しそうに出来の悪いお前の帰りを、今か今かと楽しみに待っている。

 ――さあ、トニー。バカで間抜けでドジなお前でも、この街はお前を待っててくれてるよ。

 頭の中に響く雑音に呑まれながら、トニーは足元の椅子をとり、雑音の方へ投げつけた。

2

 体の重たさを感じて目がさめる。鉛のように重い体は節々が痛んだ。

 気がつけば、トニーは深い眠りについていた。

 先ほどまで明るいと思っていた窓の外は、赤々と夕日で彩られていた。血の海から這い上がるように重たい体を、冷たい床から起こすと。暖房が切れてしまっていた部屋の中は、風邪をひいてしまいそうなくらい寒くなっていた。

 今の時期は、夕方になるとすぐに空気が冷え切ってしまう。他の街より比較的雨の多いこの街は、更に冷えてしまうだろう。時々その冷たさが、トニーにとって心地いいと思うときがあるが、今はごめん被りたい気分だった。今日の天気は晴れだと、ニュースで言っていたため、少し安心する。

 トニーが薄暗い室内を見渡すと、強盗が入り、金品を漁っていたかのように荒れていた。トニー自身、部屋を荒らすくらい暴れたことは覚えていた。

 なにかを壊さないと気が済まない時が、子供のころからたまにある。一時期はそれに支配され、ところ構わず暴れていた。

 あの街を出たおかげか、それとも、ストレスを感じることがあまりなかったのか、イギリスの高校へいくようになった辺りから、その衝動をある程度コントロールできるようになった。ほとんど暴れることなく、落ち着いた日々だった。社会人になってからは仕事のストレスで、再び暴れるようになったが、この部屋、リビング限定に留められるようになった。そのうえ暴れたとしても、精々椅子が一個壊れるくらいだ。部屋にあるもののほとんどを壊すことは珍しい。

 ただ、今日はコントロールしようとする前からその衝動が湧き上がり、制御不能になっていた。壊しているときの記憶は曖昧だ。すっぽりと抜け落ちている。肉体的な記憶がなければ、強盗か何かを疑っていただろう。身体の痛みでまだ、自分がやったという自覚がもてる。

 トニーはなぜ、自分が暴れていたのか理由を知るために、部屋を荒らす直前のことを思い出そうとする。ここまで暴れるということは、相当嫌なことがあったに違いないはずだ。

 また暴れ出すことの無いよう、すべてを思い出すのではなく、ほどほどにとどめながらも、実家に帰らないといけないということを、記憶中から呼び起こした。そして、肩の力が疲弊感で抜け落ちていく。もう一度床に転がり、泥のなかで眠ってしまいたい気分に襲われた。

 しかし、トニーが落ちこもうが、疲れていようが、世界は何一つ変わらない。両親から、帰郷を促されている事実も、変わることなく存在し続ける。

 仕方がない。トニーは一度、部屋からでると、アパートの住人たちと、タイニーハウスでうたた寝をしていた大家に謝罪を入れる。彼らはもう、椅子を壊して暴れるトニーに慣れているのか、たまたま不在の時間に暴れていたのかはわからないが、大丈夫だと快く謝罪を受け入れた。優しい人たちだ。他ではそうそうお目にかかれないだろう。特にあの街でこんなことをしていたらクレームが舞い込んでくるか訴訟されるだろう。そうでなければ世間の笑い物だ。そこまで考えてまた、あの街に囚われていることにトニーは気づき、心が沈んだ。あの街と比べた所で意味のないことだった。この街と、あの街は比べようがない。

 あたりが薄い闇に包まれたところで、漸く部屋の掃除に取り組みだした。散らばった本やただの木片になった椅子が憐れだ。今日でここに越してきて二十三個目、つい三ヶ月前に買ってきた椅子に心のなかで謝りながらも、坦々とゴミ袋に詰めていく。ゴミになったものを全て袋に押し込むと、ほとんどのものがリビングからなくなっていた。

 がらんとした空気だけが横たわるリビングで、明日買わなければいけないものに関するリストを作り、仕事帰りに家具を売っている店が開いているかどうか、閉店時間をウェブサイトを開いてチェックする。どうやら明日は夜の七時まではやってくれているようだ。

 新しい二四個目の椅子は、明日買ってくればいいだろう。テーブルもそこで買ってしまえばいい。皿などキッチンの食器棚に入っていたものは無事だったため、その分だけ、出費は抑えられそうだ。その事実にほっとする。

 時計を見ると、時間は九時くらいだ。このくらいの時間であれば、あのカフェは開いているかもしれない。一度店に連絡を入れると、カフェ・アンブローズの店長、ジェシカ・アンブローズが電話に出た。軽く食べられるものが欲しいと頼むと、持ち帰りのサンドイッチなら用意できるといわれたため、トニーはありがたくそれを頂くことにした。十数分後に店にいくことを告げ、寝室からコートと、財布を取りだした。扉を閉め、鍵を回したあと、廊下をわたって、アパートを出ていく。

 雲ひとつないそらには、月がのぼり、煌々と世界を照らしている。トニーが息を吐き出すと、それは白くなり、周囲にとけていった。

 ジェシカの店につくと、すでにサンドイッチは用意されていた。しかも、トニーがこの店で一番お気に入りのベーグルサンドだ。温かいうちに食べてねというジェシカの忠告を聞きながら、少し軽くなった足取りで、店の前に停めていた車に乗る。

 暖房の効いた車は、温かかったが不快だった。トニーは暖房を切ると車の窓を開けて運転する。冷たい風が窓から入り込みあっという間に暖房の効いていた車内を冷やしていった。

 寒かった。しかし、今はこの冷たさが必要だ。

 腹をたてた人間がまずすべきことは、頭を冷やすことだとトニーは考えている。冷静さを欠くと、人はミスが増え感情的になり判断力が低下してしまう。

 トニー自身、感情的なところがあるため、冷静さを取り戻す方法を考えておくことは必要なことであった。そして、今日のトニーは冷静さを欠いていた。いまだに腹の奥には、火種がくすぶっており、なにか少しでも燃焼できるものを用意されると、容易に燃え上がってしまうだろう。その火を鎮火させるためにも、冷たい風が必要だった。

 加えて、煙草を吸うと煙草に入っている成分のおかげで血管が拡張されさらに落ち着きを取り戻せる。デメリットとしては、吸っていないと落ち着かなくなってくるところだろうか。年々喫煙回数が記録更新していくが、止めるつもりはあまりなかった。

 もうすぐアパートに帰られる。丁度レンガ色の家が見えたあたりで、トニーは違和感を感じて眉をひそめた。今、自分の部屋には誰もいないはずだ。住人であるはずのトニーはこうしてサンドイッチを買ってきたばかりであるし、同居しているものはいない。電気を消して出た思い出があり、車に乗ったときも部屋の窓は夜の闇をうつしていたと記憶しているため、消し忘れたなんてことはありえない。

 だとすると考えられるもの。ひとつ心当たりが浮かんだトニーは、車のなかで絶叫すると、慌てて車のアクセルを踏んだ。無理矢理滑り込むようにして駐車スペースに車を停車し、早足で自身の部屋の前まで駆け込んだ。

 慎重に鍵を開けると部屋は暖房がついており、ほどよい室温が出迎えてくれた。相手に気がつかれぬよう、音を立てずに扉を開閉したつもりだったが、扉を完全に締め切ると同時に、背後に人の気配を感じた。

「よおトニー。部屋がなんもないくらい綺麗だけど、また暴れたのか?」

 トニーの予想通りの人物が、自分の背後に立っていた。ニコル・ゲーサに、これで何回目かもわからない不法侵入を許してしまったことに、今日は最悪な一日だとため息をつきながら思うのだった。

 ニコル・ゲーサという人物について一言で説明しろと言われると、トニーがいう言葉は大抵決まっていた。「気にくわないやつ」これがトニーの二コルに対する総評だ。

 この人物は、人をからかうことを趣味としているところがあるというより、人に迷惑をかけてひっかきまわし、その様子をみることを楽しみとしているやつだと言って良いだろう。

 スラング混じりの、他者を馬鹿にした発言や挑発するような物言いが得意だ。おもちゃでいたずらをする子供のように、トニーをからかってくる。

 仕事は殺人からカフェの店員と、幅広い。知り合いやトニーの職場の上司曰く、何でも屋のような仕事をしているといっていた。特技は変装。女性のときは、ニコラ・ギラムで男性のときは、ニコラス・ヘクターと名乗っている。

 髪から足の先まで黒で覆われており、やけに存在を主張する金色の瞳が特徴的だ。ふてぶてしい黒猫あたりを想像すると、それが近いかもしれない。どうやらトニーはおもちゃのなかでも飛びっきりのお気に入りのようで、時折こうしてトニーの部屋に不法侵入をしていたり、わざわざ仕事の合間にからかいにきたりと、事あるごとにつっかかってくる存在だ。迷惑以外の何物でもない。

 しかし、ここ最近は憤慨するのもバカらしく感じ、不法侵入されることを諦めつつある。目くじらを立てて怒り狂ったところで、相手を楽しませるさけだった。それに、どうせ飽きたら寄ってこなくなるだろうと思っている部分もある。今のところ、皮肉と小言をいう程度で、好き放題させていた。

 テーブルが存在しないリビングで、食事をとるというのは、皿に地面を設置することになり、衛生面からすると、あまりにいただけない。そのため、キッチンのコンロや流しの辺りで食事をとることになる。狭い空間で肩を並べて食事をとるのは、若者が大声をあげ騒いでいるようなところくらいだろう。自身の部屋で、しかも親しくないを通り越し、殺意さえ沸くときがある人物と、トニーは並びたくはなかった。トニーは過去の自分にテーブルを壊したことについて激しい抗議を心の中で唱え、ふてくされながらベーグルサンドを頬張っていた。

 本来であれば、今はあつあつのベーコンと、塩加減が程よい卵に舌鼓をうち、指の隙間から溢れ落ちてくる溶けたチーズを追いかけていただろう。

 やはりあの店のサンドイッチは最高だ。などと言っていたに違いない。しかし、隣にいる人物のせいでその美味しさが半減だ。刃のような鋭い視線を浴びせるが、ニコルは相変わらず、自分がつくったドライカレーを美味しそうに頬張っている。そして、トニーの視線に気がついたかと思うとあの、嫌らしい笑みを浮かべるだけだった。

 この差は一体なんなんだ。トニーはまた、ふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。

「そうかっかすんなって」

「お前がいると飯がまずくなる」

「おー。そりゃああれだ。スパイスだ。食べ慣れてないだけで、慣れてきたらやみつきになる」

「ごめん被りたい。……クーリングオフは?」

「なしだ。たく。母親から帰ってこいって言われたくらいでぴりぴりしちまってさ」

 大袈裟に肩をすくめるニコルの姿に、トニーは苛立ちと、焦りの視線を向けた。

 どうして、お前がその事を知っているんだ。

 喉まででかかった言葉は、サンドイッチを食べたせいで、口がからからになってしまったのか、あの手紙を見えるところにおいて外出してしまったことを気づいてか、出てくることはなかった。

「お前の母親って、エスパーかなにか? お前の仕事の事とかきかないで、日にちを決められるなんて」

「……ただの心配性だ。俺がうっかり飛行機のチケットを買わないかもしれないと思ってるんだろ」

「へえ」

 そう。彼女は俺の事が心配なだけだ。子供の頃のことがあるから、心配になってこうしてわざわざ飛行機のチケットと手紙を用意してくれたのだ。

「なあ。俺もついてっていい?」

 聞いてくるニコルに、何のためにとトニーが疑問をぶつけると、ニコルはいつも通り「おもしろそうだから」という言葉を理由にあげた。

 狭いキッチンに、トニーのため息が響きわたった。

アンカー 2
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「まさかあなたに彼女が出来るなんて思わなかったわ」

 トニーの母親は感嘆の息をもらした。皺の多くなった顔には安心したとでも言いたげな表情が浮かんでいる。それがなんだか大袈裟に見えて、トニーはため息を漏らしたくなった。

 それでも、ため息も言い返すこともしなかった。窓には一応太陽は真上にあるものの、薄く青い空は灰色の雲のせいで晴れているとは言えそうにない。

 トニーはその空を一瞥したあと、自分だって恋人ができてもおかしくない歳だと言って苦笑する。

「だってあなた、全然そんな素振り見せなかったじゃない」彼女の声が車内に響いた。

 それもそのはずだ。トニーは今まで恋人なんて欲しいと思ったことはなかったし、本当は、トニーの隣にいる人物は、恋人ではなく恋人のふりをしている人物なのだから。

「ねえニコラさん。トニーとはうまくやっているかしら?」

 今度は心配そうな顔がバックミラーにうつっていた。その心配をなだめるかのように、恋人のふりをしている人物は、大丈夫と言いながら笑っていた。

「すっごく落ち着いてて、頼りになります」

 そう言って、ニコラがトニーの肩に寄りかかってきた。トニーは一瞬ポカンとした顔で彼女をみたが、甘えるような仕草をしているのだと気が付いて、慌てたことが両親に気づかれないよう、落ち着いた様子を心掛けながら、恋人の頭を撫でた。

 その光景が見えたのか、オーウともワオともつかない声が、車を運転していたトニーの父親の口から洩れた。けれど母親は、未だに心配そうにこちらを見つめ続けている。

「本当にそうなの。ニコラさん、無理しておだてなくていいのよ。この子のことは私がよく分かってますから。ほらあなた昔、朝ごはんを食べてるときに手元が狂うことよくあったじゃない。それはニコラさんの前では見せてない?」

 母親の、こういうところが嫌だと思った。過去のこととは言っても、あまり言ってほしくないことを、母親は心配だからともっともらしい理由をつけて言ってくる。子供のころの話だと、トニーが言っても、人の性格は、変わることはほとんどないと言って聞かなかった。

 それから、さらにトニーの思いだしたくない過去をつらつらと話し出す。

 彼女の口を縫えないだろうか。

 そう思ったが、縫ったとしても彼女は喋りそうだなという答えが頭の中に浮かんできてしまって、考えるのをやめた。どっと疲れが押し寄せて、体に力が入らなくなる。心配を勝手に募らせる母親に、ニコラはそうですねえと思案するように、トニーを見た。

「今のところは全然お義母様が心配なさってることはないですよ。先週たまたま薬局に寄る用事があったんですけど、そこでしっかり店長さんと薬の在庫や新しい薬のことについて話しをされてましたし」

 急に、知らない話をされてトニーは驚きに目を見開いた。「先週っていつ?」と聞くと彼女は「月曜日」だと伝えてくる。

 トニーは月曜日の記憶を引っ張り出すが、薬局に寄った記憶が一つもなかった。その日は一日中会社の中で、報告書を書く仕事をしていたはずだ。そう言いかけてニコラの瞳が、何かを訴えていることに気が付いた。

 しっかりしてくれ。彼氏様。

 皮肉めいた声が聞こえてきたような気がした。さっきの話は、ニコラが即席ででっち上げた話か。

「声をかけてくれたら良かったのに」

 これで一応、おかしくないやり取りになったはずだ。ニコラからも合格点をもらったようで、視線が外される。

「あんまりにも熱心に話してたから悪いなって思って。でも、とってもかっこよかったなあ」

 夢見心地のような口調で、ニコラは話す。その姿と発言に、やっぱり父親はよく分からない歓声をあげた。

 なんて奴だニコラ・ギラム。いや、本名のニコル・ゲーサと言った方がいいだろうか。

 トニーは、心の中で拍手を送るばかりだ。その拍手は、素晴らしいという称賛の拍手とは、程遠いものだが。

 いつもの皮肉で人をバカにした態度はなりを潜めていた。ついてくるなと言ったのに、ついていくと言って聞かないその人間は、手紙に書いてあった「恋人」という、同行を許されている人の役を、きちんと演じ切っていた。

 だとしたら、トニーも彼女の恋人を、演じなければならないだろう。偽物の関係で、どこまで気付かれずにできるかは、わからないが。

 トニーは誰も気付かれないように、控えめに鼻をならしながら、すれ違っていく窓の外を眺めていた。

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 ささやかで長い式はつつがなく終わり、今はパーティーを開催している所だった。

 あちこちで人の話し声と、どこからともなく流れる音楽。それから妹の友人が連れてきた子供達の甲高い笑い声。あまり落ち着かない。

 暖かで騒がしい室内がなんだかトニーの胸の奥をかき混ぜられているような気がして仕様がなかった。なるべく静かな壁際を陣取り(とは言っても、騒がしいことに変わりはない)室内にいる人々を眺めていた。

 十数分か前にはニコラが横にいたが、少し色々見てくると言ったきり帰って来ない。きっと人に紛れて話しを聞きながらふらふらしているだろう。あの人物は群衆に溶け込む事が得意だった。これが出来ないと俺みたいな人間は苦労するんだといつだったか言って居た気がする。

 そんなことを思い出しながら室内を全体的に眺めていると、こちらに気付いた人間がいた。金髪を綺麗に整えパーティー参加者のようなドレスとは違う白いウェディングドレスを着た妹がトニーの方へ駆け寄ってくる。

「楽しんでる?」

「そこそこ」

 お互い、短い挨拶だった。挨拶とも呼べないかもしれない。だが二トニーはそれくらいの会話が心地よかった。妹のトリシアは気を使わなくていいと分かったからか、「人前でずっと笑うのは疲れる」と大袈裟にため息をついた。

「帰ってくる気ないの?」

 そして、急に真剣な顔になったトリシアは、トニーにそう質問した。

 そら来た。トニーは心の中で呟く。二十歳の時もそうだった。これからもそう言うのだろう。

「仕事が忙しいんだ。それに、帰ってくる気はないよ」

「なんでよ。どうせお兄ちゃん自分がしたミスで仕事が増えてるだけなんだろうし、この街で仕事探してのんびり過ごした方がお兄ちゃんには向いてるよ。都会だなんて絶対無理だって」

「無理はしてないしミスもそれほどしてないよ」

 嘘は言っていない。トニーは今、自分のミスより部下や後輩のミスを尻拭いする方が多いし、残業で時折体は壊すが、無理のない範囲だった。それなのにトリシアはトニーの言ったことを信じられないようで、目を細めながら観察するようにトニーを見つめていた。

「お兄ちゃんって、そうやっていつも嘘とか言い訳するよね。それに、帰って来たら絶対お母さん達が喜ぶよ」

 どうやら妹は兄が言ったことを嘘と認識したようだった。その事に内心いらつきはしたが、トニーは顔には出さず「お前と姉さんがいるだろ」と言って嘘と言い訳の部分を聞かなかった事にした。

「私家から出ていくし姉さんも結婚して出ていったし。結婚してないのに帰らないお兄ちゃんと一緒にしないで」

 子供の頃から明け透けなところがあった妹は、トニーにしっかりと刃を立て引き裂くように話しをする。結婚が、そんなに大事だというのだろうか。今の世の中、結婚がすべてではないと言われているのに、どうしてこうも、それに拘るのか。

「お兄ちゃんが帰ってこなかったら、あの家、とても寂しくなって、お母さん達が悲しんじゃう。だから帰って来たらいいよ」

「……考えとくよ」

 それしか言いようがなかった。そうか。妹は母親が悲しがるから帰ってきてほしいというのか。人の声が合唱していたはずの部屋は、輪郭が歪み、不協和音な音に変わった。空調が効き過ぎているのか、生暖かい空気が気持ち悪く、トリシアがまだ言い足りないという顔をしているにも関わらず、外に出ようとトニーが足を前に出したときだった。

「ア――!」

 耳を劈く大声と、腰と、足元に衝撃。トニーが驚いて後ろに後ずさろうとすると、床についた足がどういうわけか滑っていった。今度はトニーが大声を出す番だった。短い悲鳴が口から洩れ、尻から背中にかけて、硬い床にぶつかった衝撃が体に響く。それから数秒の沈黙そして、

「おいおいテッドがトニーにぶつかって倒れたぞ」

 どっと押し寄せる笑い声と、一気に集められた周囲の視線。こんな子供に押し倒されるくらい弱いのかという人を嘲笑する言葉も投げかけられ、恥ずかしさで体が熱くなっていく。

「流石、叔父と甥だな」

 どこかで、そういう声がした。足に絡み付くように突進してきた子供は、トニーと同じ、灰色がかった金髪と、青い瞳。少し吊り上がった瞳は弱弱しく揺れて、耳を塞いで叫びたいかのように、両手を顔の近くにもっていっていた。

「まあテッド大丈夫?」

 人の声を掻き分けてきたのはトニーの姉であった。柔らかい笑顔を倒れている子に向けながら近づいていき、小さく笑って「もう。そそっかしいんだから」と言った。テッドと呼ばれた、トニーによく似た少年は、大きく肩を跳ねて何度も口ごもりながらもお母さんと姉のティナを呼んでいた。

「お母さんとお父さんから離れちゃダメって言ったでしょ?」

「ごめんなさい。僕……」

「大丈夫よ。あなたはお父さんのとことへ先に帰ってて」

「うん……。ばいばい、おじさん」

 重い足取りで男の子は去ってしまった。力なく手を振った彼と同じように、トニーは呆気にとられた顔で手を振った。その頃には周囲はもう、先程の事を忘れてしまったかのように、また同じ喧騒が室内に満ちていた。

「久しぶりね、トニー」

「姉さんもね。あと、セオドアも」

「大きくなったでしょ?」

「ああ。全然わからなかったよ」

 セオドア・トンプソン。さっきぶつかってきた少年の名前だ。その子供はトニーにとっては甥で、最後に見たのはトニーが大学を受けてこの街を去る前の年で、その時はまだ姉に抱き抱えられていたような気がする。それが今は自分の膝と腰の間くらいだ。つくづく、子供の成長は早い。

 ただ、その時は恥ずかしそうに母の胸に顔を埋めてちらちらと視線を送り、笑いかけると安心したようににっこりとはにかんでいたのだが、一つもその面影は見当たらない。どちらかというと、過去の自分にご対面してしまったかのような気分だった。奇妙な既視感。

 ティナにその思いは伝わってしまったらしい。彼女は「子供の頃のあなたそっくりなのよ」と、笑いながら言っている。それから、少し考える素振りを見せた。

「ごめんね。あの子、実は発達障害があるみたいで」

「ああ。そうなの」

「そうなのよ。お陰で大変。ただドジだっただけのあなたとは違うわ」

 肩を竦める動作をしながら、ティナはセオドアが消えていった方向を、一瞬だけ見た。

「全然違うとと言えば。トニー、変わったよね」

 それから、トニーの方をじっと見つめる。

「母さんや父さん、トリシアからあんまり変わってないって言われたよ」

「そうなの? 私から見ると変わったように見えるわ。堂々としてるし嘘とか言い訳が多かったけど、今はないようにみえるし」

 確かに、認める。子供の頃、嘘と言い訳は多かった。そして、きっと今もそうだ。トリシアに言われなくてもわかっている。ここでは、いくつもの言い訳を考えないと、自分はやっていけない。

「トリシアは末っ子で甘やかされてたし、知らない事が多すぎるのよ。だから嘘や言い訳ばっかりだって思ってるのよ」

 ティナはもっともな理由が、あのときはあったのだとでも言いたそうな口ぶりだった。もしかすると、姉の彼女もトニーと同じで何かあったのかもしれない。しかし、それだけで彼女の口からは一向に言い訳なんて出る気配はなかった。どこか遠くの方を見つめて「テッドもトニーみたいに変われたらいいんだけど」と呟いている。

「大丈夫じゃないか? 姉さんの子だし」

 そう言うと、姉は苦いものを噛んでいるような顔をして「そうなんだけどね」と呟いた。

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 疲弊は頂点にまで達した。人が多くて暖かい室内は、短い時間であれば別に平気だなのだが、長居すると、やっぱり居心地が悪くて疲れる。

 トニーに心が安らぐ時間が訪れたのは、パーティー会場から抜け出して、冷たい空気を吸いに外へ出て、タバコを一本消費したあとだった。

 口から漏れてくる呼吸は重い。吐き出される煙はさらに重い。冷たい風が吹いているはずなのに、煙はかき消されるどころか、留まっているように見えた。それくらい重たいのかもしれない。

 ニコルに外へ出ると言い忘れていたな。

 今更、ついてきた人物を思い出した。まあ、探してはいないだろう。探しているのなら、連絡を入れてくるはずだから。

 そんなことを思いながら、外をぼんやり眺めていたところで、トニーの右隣の、閉まっていたドアが開いた。中から生気をどこに置いてきたのかと聞きたくなるくらい、ふらふらとした足取りで誰かが出てくる。

 セオドアだった。疲れた顔をしている。大人になったトニーですら、こういうかしこまった式は疲れてしまうのだから、子供のセオドアなら、仕方がないことだった。

「やあ、お疲れ様」

 トニーが声をかけると、セオドアは、小さな悲鳴をあげて肩を大きく揺らした。姉と同じ緑がかった青い色の瞳が、泳ぎながら見つめてくる。それから、視線がかちりと音を立ててあうと、すぐに扉の方へ顔を向けてしまった。

 やはり、どことなく昔の自分に似ている。違っているのは髪型くらいで、その、自信がなくて揺れる瞳も、不安で震える肩も、周囲を警戒している動作も、ほとんどが昔の自分そっくりだった。セオドアには悪いけど。

「怖がらせるつもりはない。俺はトニー。トニー・ダヴィッド・ターナー。君のおじさんで、一度会った事がある」

 セオドアは、目を大きくして、じろじろとトニーの顔や爪先を見つめていた。

「おじ、さん?」

「そうだよ。覚えているかい?」

「うん……」

 それ以上、会話が続かなかった。セオドアはトニーの事を覚えているようだったけれど、どうも驚きと疑問の色が浮かんでいるように見える。

 その上、向こうはこちらが話してきたこと自体に驚きと疑問を考えているようで、何を話すか考えていないようだった。視線があちこちにさまよっている。しかも、声をかけたトニー自体、何を話すのか考えていなかった。どうすればいいのかという疑問が、お互いの体内で蠢いているのがわかった。それを解消する方法がわからない。

 こういう時、子供だった自分は、何を考えていただろうか。過去の自分を記憶の棚から引きずりだす。出てきた過去は、今の自分とそんなにかわらない。「どうしよう」という言葉だけが、渦巻いていたことを思い出した。

「外へいかないか」

 ここはちょっと、ざわざわするだろ? 浮かんだ言葉はそれで、もう少し良い言い回しが出来なかったのかと自分を叱りたかった。

 けれど、セオドアはトニーの言葉をきいて、恐る恐る、確かめるような目つきで、こちらを覗いてきた。言葉の意味を咀嚼し理解できるようになると、助かったという安堵の表情を浮かべ、何度も、首を縦に振る。

 安堵の息が勝手に漏れた。セオドアも、まるでトニーを真似しているかのように、息を吐き出していた。

 良かった。間違ってなかった。

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 室内で見知らぬ男性と話しをしていたニコル(今はニコラの姿をしている)に、セオドアと出掛けてくると伝えると、ニコルもついていくと言い出した。優しくて当たり障りない言い方ではあったが、人の相手をするのに飽きたのだと。人付き合いが得意ではないトニーにとって、飽きるという感覚がわからなかったが、そういうことにしておいた。

 ティナとその夫にも声をかけると、トニーたちといるなら安心だと快く承諾してくれた。トリシアと両親は、別に良いだろう。抜け出したとしてもこの騒がしさでは気づけないはずだ。

 パーティーのために着てきた服のまま外へ出ると、通行人の多くは奇異な目をしてこちらを見た。しかし、何があったのか思い出したかのような顔をして、すぐに笑顔になる。トリシアの結婚式は周知されているようだ。

 だが、周知はされていたとしても、目立つことは変わらない。視線をずっと受け続ける羽目になるのはトニーだけでなく、セオドアもニコルも嫌だったため、ゆっくり落ち着いて話ができるところへ行くことにした。「こっち」といいながら、セオドアが案内してくれる。セオドアの背中を追いかけながら、ニコルがトニーのすぐ横で、セオドアには聞こえない程度の音量で話しかけてきた。

「居心地悪い場所なんて、腐るほどあるもんだけどさ。ここはめちゃくちゃひでえな」

「そんなにか」

「ああ。お前の瞳が変わるのもわかるよ」

 瞳? 瞳がどうかしたのだろうか?

「気付いてねえの?」

 そう言われたとしても、気付くことはできない。鏡がない限り、自分の目を観ることなんてないのだ。

「いつもは冬の空みたいな色してる。けど今は全然違う」

 ニコルは言いたい事を良い終えたらしい。トニーが聞き返す前に歩調を早め、セオドアの方へ行ってしまった。

 一体、何だと言うのだろう。自分の瞳は確かに、色素の薄い青色だ。いつもは冬の空。今は全然違う? では、今の自分の色は、何色だと、お前は言いたいんだ。

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 子供というのは、思ったより体力がある。そして、大人では知らない場所を見つけることも、そこへいくまでの道のりも、とても独特だ。

 草木の茂みをかきわけ、出た先は、大きな湖の近くだった。鏡を嵌め込んだかのように、山と空を写している。冷たい風が吹いているにも関わらず、水面はぴん、と、薄い膜を張り付けたかのように揺れることはひとつもなかった。

 記憶が甦ってくる。トニーが幼いとき、よくここへきていたのだ。大人はなぜか立ち寄らない山林のなかの湖。いじめられたときや嫌なことがあったときは、ここで一人、ずっと立ち尽くしていたこともある。

 鳥の高い声が聞こえた。風に揺らぐ木々や、まだ残っている葉の音も。ただ、人の声はない。どこまでも、人以外の存在の音だけが聞こえてくる。

「ここも、何一つ変わっていないんだな」

「トニーおじさん、きたことあるの?」

 独り言のつもりだったが、それは独り言として処理されることなく、セオドアの耳に届いてしまった。驚きの表情を浮かべて返ってくる。まるで、なんのきなしに湖のなかに石をいれたときの、波紋の広がりをみているような心地だった。思っていたよりも飛沫があがる。石を投げ入れたのはトニーだ。

「俺も子供の頃、この街にすんでたんだ」

「あ、そっか。お母さんの弟だもんね……。ばかなこといってごめんなさい」

「いや、いいんだ」

 あとにその言葉が続いてでかけ、一度大きく息を吸い込み、飲み込んだ。

 一体自分は何を言うつもりだった。この街から逃げた。ここに帰るつもりはなかった。多分、それに近い言葉だったはずだ。

 いくらこの子供が、かつての自分と似ていたとしても、その身を重ねたり、比較してはいけない。聞かせる話ではないだろう。聞かせるべきではない。

 代わりに、トニーは頭をなでた。誤魔化しであるとはわかっていたが、これくらいの事しか浮かんでこない。触れた金髪は痛んでおらず、柔らかくて、この子は過去の自分と全く違うのだと確信する。ティナが手入れをしっかりとしているのだろう。あの頃のトニーの髪は、何かあるとすぐに髪を引っ張ったり、指でかき回すせいでぼさぼさで痛んでいた。

 幼い自分に似ているようで、実はまったく違う小さな子は、頭を撫でられるとは思っておらず、驚いたようで、全身がこわばっていた。やがて、なにも危害が加えられないことがわかると気恥ずかしそうに身動ぎをする。

「あれ。セオじゃん。お前、どっかに連れてかれたんじゃねえの」

 ふいに、どこから声が聞こえてきた。声が聞こえる方をみると、黒い髪をした少年が一人。

「あんたら誰? セオの知り合い?」

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「ダニエルだ」と、セオドアは言った。黒髪の鋭い目付きを持つ少年は、セオドアの友達のようだ。

 ダニエルと言われた少年に「抜け出してきた」とセオドアが一言。

「いかしてんな」

 ダニエルはセオドアと同じように一言呟いた。棘を通り越してナイフのように鋭い視線を投げつけながら。それからは、彼は何も言わずにこちらを見つめ続けている。

 視線に耐えかねたのか、無口の彼が言いたいことが分かったのか、手を胸元で忙しなくうごかし、いかにも慌てた様子でセオドアは話しの続きを始めた。

「わ、悪い人たちじゃないんだよ。この人たちがいなかったら僕、ずっとお母さんたちと一緒で、結婚式から抜け出すことができなかったんだ」

「……ふうん」

 セオドアのことが信じられないのか、それとも別の理由があるのか、何かは知らない。けれど警戒をとく気はないようだ。

 無理もないように思えた。トニーはこの街から出ていって随分と経つ。ニコルはそもそもこの街の住人ですらない。見知らぬ大人を連れた友人というのは、この頃の子供にって警戒するには十分だ。

「はじめまして。セオドアの叔父で、トニーだ。こっちは恋人のニコラ」

「Hi.Daniel.はじめまして」

 何かが変わるとは思えないが、とりあえずは自己紹介を。トニーはゆっくりと近づき彼の目線にまで腰を落として話してみる。

「君はセオドアの友達?」

「……」

 効果はなかった。冷たい視線はさらに温度が下がり、トニー達とダニエルの間を通り抜ける風は、彼の心の中を表しているかのように冷たかった。

「勝手にしろ」

 冷たい風が吹き止んだ頃、ダニエルはそういって踵を返していってしまって、それを引き止めようとしたのか「あ」と、セオドが声をあげた。

 背中に声を投げ掛けられていたとしても、ダニエルは振り向くことはなかった。そのうち彼の背中は森のなかに消えていって、今はもう見えない。トニーは胃がしくしくと痛み出した。

「すまなかった」

「どうして?」

 トニーの謝罪に、セオドアは不思議そうな顔をした。

「俺たちがいたから彼は帰ったんだろう?」

「あー。ううん。悪くないよ。僕が悪かったんだ」

 弱々しい笑みが浮かぶ。もう一度、トニーが謝るとセオドアは手を前に突き出し上下に動かしながら大慌てで話し出した。

「本当に悪くないんだよ。ダニエルはびっくりしちゃっただけだと思う。びっくりするといつも怒った感じになっちゃうんだ。僕が先に電話して教えてたら良かったんだよ」

「そうか。驚かせてしまってすまないと伝えておいてくれ」

「いいけど。トニーおじさん変なの。そんなことで謝るんだ」

 何がそんなにおかしいのか、くすくすと笑う声。セオドアの緊張がほぐれた合図だった。笑い声はしばらく続き、一通り笑い終わったセオドアの顔は、子供らしい好奇心に満ちた顔をしていた。

「おじさん。おじさんが住んでるとこってどんなところ? なんの仕事してるの?」

「そうだな。穏やかな街、かな。大きな河とかここでは見られない高いビルや大学があって色んな人に会える。ただ、星はあんまり見えないかな」

「え。そうなの。僕星が好きだから見れないのはいやだよ」

「セオドアは星が好きなの。大丈夫よ。トニーが知らないだけで、星が見れる場所、ちゃんとあるわ」

 隣で息を潜めるように静かだったニコラが、片眼を閉じながらトニーの知らない事を話し出した。裏路地の一角、静かな公園、誰も来ることのない森のなか、大学の屋上。どこもトニーが夜に行ったことがない所ばかりだ。

「なんだあ。ならよかった」

 セオドアが胸を撫で下ろした。それからも、セオドアの質問攻めは続いた。自分の知らない街に、興味があるのだろう。子供一人では確かに街から出ることは難しい。

 トニーも子供の頃、何かしらのイベントで親に連れられて他の街にいったくらいしか記憶がない。その時は迷子になったら置いていくからなという両親の冗談が怖くて迷子になったらどうしようと心配ばかりしていてあんまり楽しめなかった。その話をセオドアに聞かせると、僕もそうなっちゃいそうだなと、苦笑いを浮かべた。

 それから三人は湖のほとりでずっと話をしていた。セオドアは学校のことや友人のダニエルのことについて話をしてくれた。数日前、セオドアはダニエルの家に遊びにいったらしく、ダニエルの部屋には面白いものがいっぱいあったことを話していた。

「そういえば、ダニエルが僕のこと、物知りだって言ってくれたんだ。でもその時にね、ダニエルがお前はこの街に合ってないって、言ってたんだ。僕はこの街に合ってないだけで、他の所へ行ったら、ちゃんと僕にあった場所があるって」

 ねえおじさん。おじさんはこの街が合わなかったから出ていったの?

 青緑の瞳は、疑問を訴えかけてくる。自分は、ここが合わなかったのか。合わなかったかもしれない。

「……そうだな。居場所がないって、ずっと感じていた。ずっと不安で、どうしたらいいかわからなくなって、自分が自分じゃないみたいに感じて、他の人の言葉に振り回されてた」

 自分のことなのに、自分のことが選択できなかった子供時代。大人のいい加減な言葉を、いちいち真に受けていたあの頃。何が本当か嘘かわからなかった。信じれるものは何もなかった。自分ですら、信じられなかった。まるで周囲が壁を作っているかのように窮屈で、思い通りにいかないことが多過ぎて。何度も思い通りにいかない言い訳を考えた。

「僕も、そういうとき、ある」

 トニーの話に、セオドアがそう答えた。彼の瞳の色や表情が、何を表しているのか、トニーにはわからなかった。

「なんだかね、何が本当なのかわからなくなるときがあるんだ。お父さんもお母さんも、街の人たちみんないろんなことを話してくれるしいってくるんだけどね。この前は先生は会った人には全員、あいさつしないとダメだって言われたんだけど、お母さんは不審な人がいるかもしれないからなるべくあいさつするのはよしてねって言われるし。あいさつしなかったら隣のおじさん、すごく怒ったんだ。最近の子はあいさつもろくにしないって」

「……俺も言われたことがあるよ」

「そうなんだ。……ずっとね、暗闇のなかにいる感じで、頭のなかに霧がかかってるんだ。ダニエルはこの街が合わないからだっていってたけど、そっか。僕、きっと居場所がどこにもないんだ」

 セオドアはそれっきり、話さなくなってしまった。トニーがニコルの方へ視線を向けると、二コルが肩をすくめ、首をかしげる動作をした。自分の世界に入ってしまった子供に、話しかけられる大人は、そこには誰もいなかった。

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 帰らないと。お母さんたちが心配しちゃう。

 たった一人の世界に飛び込んでいった少年は、現実に戻るなりそう言い出した。

 帰り道は、セオドアの話し声だけが響いている。トニーもニコラも、セオドアの話を聞いてばかりで、「ああ」や「うん」などの相槌しか打たなかったからだ。

 セオドアは、来る前と打って変わって、明るい。明日の体育がマラソンで、ビリにならないよう頑張らなきゃと意気込んでいたり、ダニエルにどうやって謝ろうかと言っていた。

 だが、森の中を出て、人の手によって作られた環境に近づけば近づくほど、話の内容がおかしくなっていった。

「だめだよ。こんなに遅くなっちゃったんだ。お母さんたち、きっと心配で死んじゃってる」

「もしかしたら、怒ってるかも。ダニエルも怒らせちゃったし。時間通りに帰ってこないのは悪い子だって、前に言ってたもん。悪い子は売ってしまうかシチューの材料になってしまうって……ぼくシチューになんかなりたくない!」

「どうしよう。僕は嫌なことしか考えなくなって、人に嫌われることばかりしちゃってる」

「きっと、僕が居場所を中々譲らないから、誰かが怒ってる。僕がいるのは迷惑だって! どこかへいかないと!」

 髪の毛をかきむしりだし、瞳は、どこかわからない方向を見て、固まっていた。ニコラが何度もセオドアの名前を呼ぶが、彼は聞こえていないようで。口からは黒い針のようなものを吐き出し続けている。針は喉や内臓を痛めつけながら吐き出されるのだろう。苦し気な呻き声と歪んだ顔が混じってきた。それでも、彼は構わず吐露し続ける。

「セオドア!」

 ニコルがセオドアの肩を掴んで大声で名前を呼んだ。ニコラのままではいられなかった。トニーもセオドアに駆け寄り、どうしたと声をかける。

 ニコルが肩を掴んだ時点で、セオドアの赤黒い言葉は止まっていた。トニーが膝をついてセオドアと目線を合わせたころには、視線をさまよわせた気弱な少年になった。

 その姿に、トニーは安堵した。ほっ、と、小さく息が漏れる。ニコルもトニーと同じだったようで、隣から安心したかのようなため息が聞こえてきた。

「ごめんなさい。僕……」謝るセオドアにいいんだと答えた。いいんだ。落ち着いたのならそれで。まだ震えているセオドアの手を、そっとトニーは自分の掌で包んだ。乾燥して、ささくればかりの手の感触が、自分の皮膚に伝わってきた。

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 世界が闇に、完全に覆われた。夜がやってきたのだ。街はトニーたちが住んでいる街よりも雪が積もっているため断然寒い。一日がようやく終わりを告げようとしていた。

 セオドアはあのあと、別れるまで不穏になることはならなかった。手は、ずっと握っていた。それがよかったのかもしれない。

 別れる前にティナからお礼を言われた。何か変な様子はなかったと聞かれたが、湖からこちらに帰る途中の出来事は、セオドアが力なくトニーの手を握り返してきたため黙っておいた。それから、トリシアがパーティーから抜け出したのを言わなかった事に腹を立て、セオドアに「こんな人といたら嘘つきと言い訳しかしない人になって嫌われちゃう」と言ってきた。妹の言い様にムッとしたし、姉に何か言って欲しかったが何も言わずに笑っていたのを見て、沈黙するしかなかった。トニーがいったら、何か言い返すのは目に見えていたので。

 泊まる予定のモーテルへ向かう際、ニコルから「お前の妹、腹立つな」と身内を罵られても、トニーもそう思っていたので、しっかりと頷いておいた。

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 モーテルにつくと、フロントにいる男がいた。よく見ると小学校時代のクラスメイトだ。相手もトニーに気が付いたらしく、実家があるのにどうしてこのモーテルに泊まるのかと聞いてくる。

 彼女がいるからと答えると、冷やかしの声と熱烈な視線が投げられた。そのクラスメイトの言葉に昼時の両親のやりとりや、パーティーで数人、話しかけてきた人達のことを思い出してしまった。海底に無理やり沈められたかのような疲れが襲ってきて、それをトニーは隠すかのように笑った。皆、人の色恋沙汰が好きだな。

 渡された鍵を使って部屋のなかに入ったが、疲れを吹き飛ばせそうなものはひとつもない。

 埃っぽい空気。手入れのされていないソファ。よく分からない美的センスをうかがう絵画と、白かったはずの黄色がかった壁。壁には、タバコを吸わないようにという警告文がかかれた紙がはってある。テレビは大きく、最新式。そういうところが、とても生活感があふれている。

 その中で、部屋の中心にあるダブルベッドだけは、しっかり整えられていた。白いシーツには皺はひとつもなかったし、ベッドのスプリングはきちんと跳ね返る。ベッドの端に腰かけると、少し沈んで、ほどよいところで柔らかに押し返してきた。それがさらに違和感を強めていた。ちぐはぐ。統一感がまるでない。糊の利いたシャツにケチャップの染みが付いていた時のような決まらなさ。

 ニコルはベッドの上にキャリーバックを放り投げてから、着替えを取り出していた。先にシャワーを浴びてもいいか、明日はどこに行くのか、予定はあるのかなど聞いてくる。泊まる気満々のようだ。当たり前か。トニーはその姿を見ながら、ゆっくりと傍にあったほつれと毛玉が見えるソファに腰かけた。

「ニコル。お前は先に帰れ」

 トニーの言葉に、ニコルは怪訝な顔をする。言葉には出ていなかったが、なんでだという疑問が、ありありと浮かんでいた。

「これ以上、嫌な思いはさせたくない」そういうと、片方の眉毛が動き、服を取り出すためにバックの中に突っ込んでいた手をそっと抜いて、体の向きを変える為に使った。

「確かに胸糞悪いなって思うことはあったよ。けど、それくらいで帰らねえよ。それに、坊ちゃんの様子も気になるし」

「随分と優しいんだな」

「そりゃあね」

 ニコルらしからぬことだ。普段のニコルなら、面白くないと言って帰っていてもおかしくないはずなのに。思えば、あの手紙を見られた時ですら、面白そうなことは一つもなかったような気がする。それでもついてきて、胸糞悪いと言いながら帰ろうとしない。一体全体、こいつは何がしたいんだ。

「帰れって言われたら、帰る気失くすよな」

 その言葉に、脳みそが沸騰していく感覚が、湧き上がった。

 この天邪鬼。こいつにはわからないんだ。自分の体や思考ですら、自分の思い通りにならないことが、それがどんなに辛いことが。そのうえ周囲から自分の事を決め付けられ、選択を奪われ、笑いものにされ、嘘つきと言い訳しかしない人間と罵られるのだ。居場所は簡単に奪われた。自分はいないかのような扱いを同級生から受けた。両親は妹をかわいがり、妹の言うことは散々聞いたが、トニーの言うことはいつだって「お兄ちゃんだから我慢しなさい」だった。数日たったあたりで「ああの時言ってくれたらよかったのに」と言われ続けた。そんな目にあったこと、こいつにはないのだろう。体験したことのない痛みは、誰だって理解することはできない。

「お前だけは、俺の言うとおりにしてくれると思ったんだが」

「は?」

「どうせ、お前が帰ろうとしないのは、仕事だからだろ。お前が俺の上司から、俺の世話をしてくれと言われてたもんな」

 お前を助けてやってくれって上司から言われたんだけど。

 いつだったか、トニーが仕事を終え、帰宅しようとしたところ、道端で倒れたことがある。そのときは丁度、四ヶ月ほど働きづめだった。カロリーが取れればそれでいいと思ったばかりに、栄養のあるものを食べるよりも、ブロックの形をした有名な食品や、十秒ですませられるゼリーしか食べなかった。寝るのも二時間あればいいほうで、座り心地の悪い職場の椅子に座って寝て、起きたらすぐに仕事にとりかかる。そんな生活を四ヶ月も続けたら、案の定倒れたというわけだ。

 そして、その倒れているところを見かけたトニーの上司とニコルが、トニーを家まで連れて帰った。連れ帰って、上司はニコルに頼んだのだ。トニーを助けてやってくれ、と。

 きっと、ニコルはそれがあるからこうしてついてきているのだ。一体いくら報酬を貰ってるんだ。なんなら、その分を出してやろう。そしたら帰ってくれるか? そう皮肉を言ってやりたかったが、これ以上重たい口を動かしたくなかった。

「坊ちゃん」

 ニコルがトニーを呼んだ。そこには笑顔があった。貼り付けられた、怒りに満ちたのを笑ってごまかしているような――

「歯ぁ、食いしばれ」

 突然。右頬に鈍い痛みが走った。揺れる視界には、ニコルの黒い皮手袋が見えた。脳みそが揺らぐ。衝撃が脳へ伝わり、回復するまでのあいだに、足を引っかけられベッドの上に倒れた。ニコルはトニーの胸の服をひっつかみながらのしかかった。

「てめえの言うことなんか聞くか」

 低く、どすの利いた声だ。完全に怒っている。

「何も見えなくなった奴の言うことなんて、聞きたくないね」

 トニーがニコルの言葉を繰り返すと、ふん、と鼻をならした。

 自分は、何が見えなくなっている。怒っているニコルの表情と、乱れたシーツと、埃っぽい部屋。それ以外に、ここにはない。物質的なものでないとしたら、あとは、なぜニコルが怒っているかくらいしか、考えることはないだろう。しかし、怒っている理由は、何も見えていないからでその、何が見えていないのかがわからない。

 わからないまま、ニコルを見つめていると、黄緑色のカラーコンタクトを入れている瞳から、黄色が強くなったように見えた。ああ、そういえば。ニコルは昼間、気になることを言っていたじゃないか。

「瞳の色が変わっている」

 そう言うと服の襟を掴んでいた二コルの腕から、少しだけ力が抜けた。いつもは冬の空みたいな色してる。けど今は全然違う。確かそう言っていた。その時の、ニコルの表情や、声音は何も思いだせないが。

「ニコル。俺の瞳の色は今、何色なんだ?」

「……緑色」

 緑色。グリーンアイズ、か。嫉妬の色だ。いや、この場合だと、怒りや未熟のほうが正しいか。どちらにしろ、自分の目は曇っている。そう言いたいのか。

「しっかりしろ、トニー・ダヴィッド・ターナー。お前はそんな男じゃないだろ」

「……これが本来の俺だったら?」

「それはない」

 すぐに否定が帰ってくる。何故、そこまで言い切れる? 過去の事を知らないニコルが、どうしてそうも否定できるのか、トニーは不思議でたまらない。

「怒るときは暴れるし、冷たい。でも優しい。俺よりずっと周りのことが見えてる」

 シャツを掴んでいた手が、ゆっくりとほどけていった。トニーは、呆気にとらわれている。そして、胸の奥がむずむずと痒くなってきた。

 いや、だって、これはずるい。いつもは人をからかうことしかしない人間が、ここまで怒って真面目に話しをしてるだなんて。しかも、話したいことは多分、自分を元気付けようとする言葉で、なんとかいつも通りにしようとしてるんだ。お気に入りのおもちゃが壊れそうだから、必死に直してる子供のようにもとれる。だがまずニコルという人間は、お気に入りのおもちゃを作らない。

 そう思うと、視界が広がったように見えた。心配してたんだ。着いていくって言ったあの夜から今の今まで。街の中を歩いている時、胸糞悪いといったのも、妹に腹を立てていたのも、あれは俺がそう思っていそうだったから言ったんだ。天の邪鬼だから、ぐねぐねと分かりにくい回り道のような言い方になっていただけで。

 おかしいったらない。むず痒さに喉から笑い声が漏れた。

「……何笑ってんだよ」

「らしくないなと思ったんだ」

 部屋のなかにくすくすという音が響き、「やっといつもの坊ちゃんに戻ったか」と、呆れたようにニコルが言った。

 その声音には安堵の色が見え隠れしていることにトニーは気が付いていたが、気が付いていながらも、からかわないでおいた。

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 真っ暗な夜の空よりも暗い、明かりの灯らない室内に、カーテンの隙間から細い光の筋が入っていた。というより、今はそれしか入るものはない。

 肌に纏わりついたまま固まってしまった、生暖かい空気が気持ち悪い。風でも吹けば、少しでも違うのに。重い空気の中に吸い込まれるように、呼吸も下に落ちていった。人に笑い声が聞こえ、その耳障りな音を聞きたくなくてトニーは掛け布団を頭から被り、耳を塞いでいた。

 

「トニー、朝よ。起きなさい」

 トニーの母親が扉を開けて、部屋に入ってくる。布団を被っているせいで、母親の顔は見えなかった。ただ、笑っているだろう。それだけはわかった。

「早く起きないと、……そうねえ。ここに落ちてるあなたの大切な本、捨てちゃおうかしら」

「ダメ!」

 布団を勢いよく撥ね飛ばした。母親が笑顔で手に持っていた本を机に置いた。

「いい子ね。さ、朝ごはんを食べるために着替えないと」

 瞼をセロハンテープで塞がれている彼女は、そう言ってトニーを部屋の外へ引っ張り出した。

「やあおはよう。昨日はよく眠れたかな」

 目を糸で縫われた父親が、口元に笑顔を張り付けていた。朝食を残すと学校の授業に追い付けなくなるぞと言いながら。

 テーブルの上には食べきれない量のパンケーキとシリアル、シーチキンとレタスのサンドイッチが積まれていて、すぐ横には大きなミルクピッチャーが置いてあった。

「牛乳を飲むことは体にいいらしい」

「しっかり食べて大きくなるのよ」

 両親が肩を寄せあってトニーに微笑んでいる。先に席についていた妹は、それらをなんでもないように口に放り込んでいた。妹の顔は真っ黒な布がかけられていて、トニーのことなど気づいていないようだ。気づけないのは仕方がない。見えていないのだから。

 姉はもう家から出ていってしまった。近頃はずっとそうだ。学校や友達の所へ出掛けることが多くて、家にいる時間は少ない。

 仕方がないので言われた通り食事をすると、パンケーキは甘すぎてすぐに胸焼けを起こしそうになった。生焼けだったのか溶けた生地は飲み込もうとしても喉から先へ進むことができず、気持ち悪い甘ったるさが口内に留まり続けた。

「吐いたら掃除するんだぞ」

「ママを悲しませることはしないでね」

 瞼は、塞がれているはずなのに、ずっとこちらに痛いくらいの視線を向けていた両親から、笑顔が消えた。

 代わりに、テレビドラマのラフトラックのように、周囲から笑い声が聞こえてきた。

 なにがそんなに愉快なのかわからない。

 目も耳も縫われた人や、顔もない黒い塊がトニーを蹴飛ばしていった。小学校の同級生だ。自身のロッカーに激しくぶつかったトニーをみて、更に笑い声が大きくなる。

 ロッカーの中は、沢山の紙が貼られていた。「弱虫」、「泣き虫」とかかれたものから、到底人に向かって言ってはいけない言葉まで。同じくらいの歳の子供達がトニーがいない間に書いて、貼り付けていったのだ。ため息をつかぬよう吸い込んだ息を止めて、貼り紙ひとつひとつを剥がしていく。

 また、耳障りな音が大きくなった。

 彼らは楽しんでいる。不幸で惨めな人間を見て、その人間が、どういう反応を見せるかを。

 他人の不幸を食い物にしている。この世で一番不幸なやつを見て、惨めだなと言って笑いたいのだ。もし、ここでトニーが泣けば、誰の言葉に一番傷付いたか聞いてくるだろう。それから自分が一番、トニーを泣かせることができると競い合うのだ。それだけは絶対に避けたかった。つまらないと言って、不幸で惨めな人物のターゲットを変えるまで、隙を見せてはいけない。少しでも素振りを見せると、何をされるだろうか。だけど、今からの授業で、先生に質問されて、答えられなかったらどうしよう。きっとまた笑い者にされて、新しい貼り紙が増えるんだ。それから体育のバスケットボールの授業で、ドリブルができたら「お前みたいな奴はドリブルすらできないはずだろ」って言って、事故のふりして足を踏むとかしてくるんだ。それから、

――――――――バン!

 急に、トニーの顔のすぐ横に風が吹いた。その風はトニーのロッカーを叩きつけると、人の腕の形をして、その場に留まっていた。

 腕の元へ視線を向けると、黄色い瞳が不機嫌を訴えている。丸く切られた黒髪の、男の子とも女の子ともつかない子供が立っていて、トニーを睨んだ。

「逃げるぞ」

 黄色い瞳の子供はそういうと、トニーの手を掴んで、ぐいぐいと引っ張った。つられるように足を出せば場面が切り替わるように景色が変わっていった。黒、白、いや、黒。トニーの部屋、学校の校庭、街の通り、スーパーの駐車場、最後に、湖の見える雪景色。

 時間は一体いつだろうか。夜のように暗く、星が瞬いていたが、東の空の端は白くなっていた。

 トニーと、隣にたっている子供は、肩で息をしながら、その光景を眺めていた。

「綺麗だな」

 トニーの横に立っている子供がそう言った。トニーは頷きながら、天にある、一番明るい星を指差している。

 ああ。これは夢だ。

 どこかで冷静な部分が呟いたかと思うと、幼いトニーの体から引き離され、彼らの後ろに立っていた。

 これは夢だ。どうしようもない位暗かった過去に、希望や期待を書き加えて、少しよくなった、ただの空想だ。

 あの頃の自分は、どうしようもないくらい暗かった。思い通りにいかない世界。自分のしたいことはできないで、相手の思うままに進む。物語の主人公を導くための、ただのみじめな脇役。いつしか、絶対、誰からも理解されないと思い悩み、話しをすることすら億劫になって、自分の言葉も失った。

 そう。あの頃の自分は独りだった。もし、この夢のように誰かに手を差しのべられても、トニーは絶対、その手をとって逃げないだろう。もしかしたら、実は誰かが既に自分に手を差しのべていたのかもしれない。でも、やっぱりそれに気づかなかったし、手を伸ばそうともしなかった。

 たった独りで、夜明けの星をみあげるだけ。夢を見なかった子供時代。

 二人の姿がだんだんと遠くなっていく。気が付けば輪郭も失い、ゆっくりと、映画のように端から暗くなっていき、最後には真っ暗になった。

 

――それは、夢からの目覚め。

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 大学や会社のビルが立ち並ぶ街の中心から少し外れ、小さな家々が列をなしている住宅街の一角に、レンガ色の建物がある。

 一九四〇年代、政府が車と家を多くの人に買ってもらうために考えられ、流行した建築様式で作られた、家族向けの家だ。シンプルに見えて、真四角ではない大きな窓が特徴。その家は、道路とは反対側の方面に、大きな窓がつけられていた。

 二階建てで大学や会社に通う単身者が、アパートと似たような感覚で借りられるようにつくりは改装されている。隣にはこのアパートの大家の職務室になっている小さな家(タイニーハウスと言われている)もある。なにかあると営業時間中ならすぐに家主を呼べる仕組みだ。

 借りられる部屋はみっつ。どの部屋もすでに住人がいる。そのうちのひとつ、二階の道路側は、日当たりのよくて、小さい窓がついている部屋はベッドルームとキッチン、バスルームが一室ずつついている。リビングとベッドルームの床は白く、壁は木材ではなく石のようなものが使われていて黒かった。天井は濃い色の木の板が貼り付けられ、バスルームの壁は鮮やかな青色で彩られている。

 設備と部屋の間取りは申し分ないのに、色合いの個性が強すぎて、人の好みが別れる部屋。

 それが、トニー・ダヴィッド・ターナーという男が住んでいる部屋だ。年齢は二十代半ば、長身で、金髪で、とても落ち着いているように見える。実際はいつも疲れていて、あまり騒ぎたくないだけだった。今はとある製薬会社で働いていて、いつも忙しいと仕事のことを聞いてくる人に必ず言っている(先週も海外出張から帰ってきたばかりだ)

 何故、バスルームだけ壁を青に。しかもあんなに鮮やかに。

 その質問を家主にぶつけたことがある。トニーが大学を卒業し、製薬会社の営業部門に配属が決まり、この街に住むためアパートを探し回っていたときだ。白髪混じりで、トニーの父親より歳を重ねているだろう家主に聞くと、かっこいいだろうとふんぞり返っていた。

 それを言われて、困ったことを覚えている。かっこいいかと聞かれると家主には悪いが、あまりそうではないと言ってしまいたかったからだ。どちらかというと奇妙だ。 トニーは部屋のインテリアに関しては、中も外も幾らかは統一されていた方が好きだった。斬新なものよりも堅実で、無難な方がいい。

 しかし、その斬新な色合いを使われているアパートに反して、周囲は静かで落ち着いていて、心地がいい。

 綺麗に舗装された道路を車で十分から二十分ほど走らせれば街の中心へ繰り出せるし、プライベートがしっかりと保たれている。

 それに時々、気さくなオーナーは部屋にやってきて、トニーの好きそうな本をかしてくれるところも、トニーがこのアパートを気に入っている点だった。

 どこよりも住みやすい街で誰よりも快適な人生を。

 街ではよく張られているポスターのフレーズに「なるほど、確かにそうだ」と、思える。

 そのアパートに手紙が届いた。電話やメールなどの通信機能が発達したこの現代で、手紙が届くことはまず少ない。あったとしてもそれは、請求書か紙面に残さねばならないくらい大切なものがあるときくらいだろう。または仕事の書類か。

 両親から帰省を促す手紙など、届くことはあまりない。電話で帰ってこいと連絡をいれれば、十分だ。

 しかし、現実は、トニーの両親からの帰省を促す手紙だった。薄い灰色の封筒の中には、やけにカラフルな色合いの手紙が入っている。ご丁寧に文字の色も、黒やブルーブラックではなく、ピンク色であった。我が親でありながら趣味が悪い。これは斬新な色遣いという言葉では、到底表すことのできないくらいひどいものだ。

 そして、手紙の内容は、それを一目見ただけでトニーの心の中が暗闇に覆われてしまうくらい、トニーにとって、ひどいものだった。

 

 愛する息子、トニーへ

 妹のトリシアが結婚することになりました。ささやかながらも結婚式を考えているので一度家に帰ってきてください。また、もしあなたも心に決めた人がいるというのなら、連れてくるように。

 追伸:あなたはよく物事を忘れる子供だったから、忘れにくくするよう形に残る手紙にして連絡したわ。それから、日にちはカードに書いてある通りよ。泊まるところは我が家でいいかしら。迎えはいる? それだけは連絡をいれてちょうだい。

                  あなたの母、エイダより

 

 本題の部分だけ書いてくれていたらよかったのに。追伸は、どう読んでも余計なお世話だ。いくら自分が幼い頃は、よく間の抜けたドジを繰り返す子供だったとはいえ、さすがに今ではほとんどなくなっている。むしろ部下のうっかりミスや後片付けに、頭を抱える毎日だ。自分がドジを踏む暇すらない。

 母親のあまりの書きように、嫌悪感が喉元までせり上がってきた。その嫌悪感はいくつもの過去の記憶を呼び覚まし、どろどろとなかで沈殿して、留まっていく。

 あの家にいることがいやで、あの街が嫌いだった。自分が自分でなくなるような恐怖を、常に味わいながら育った。

 トニー・ターナーという人間は、大事なところで緊張し必ず失敗する。算数が苦手で、計算させると、必ずどこか間違えている。何度同じことを言い聞かせても同じ失敗を繰り返し、テストの成績は赤点まみれ。提出物に飲み物をこぼしてダメにしてしまったため提出できず、一度落第となりかけたことがある。

 常に不安が影のように付きまとい、通りかかった人を見ただけでも誘拐犯かもしれないと思って悲鳴をあげる。そんな、できない子供の役を、トニーは押し付けられてきた。何もできないかわいそうな子供。あまりに惨めな生活だ。

 それに抗おうとしたこともあった。しかし、できなかった。

 結局、大きな流れには逆らう事ができず、あの街にいるあいだはそうあり続けた。

 主体性は奪われた。もし、自分がなにか選択しようものなら、それを奪い取って、誰かが道を用意する。

 例えば、トニーの誕生日に、なにかほしいものはあるかと聞いてきた祖父に、指輪をめぐる冒険の本がほしいといおうとしたときだ。自分よりも母親が先に、「男の子は模型の飛行機が好きだから、それにして。トニー。もらってもすぐに壊しちゃだめよ」といわれてしまった。

 もちろん、トニーは本がほしいと母親にいい、祖父にも「この本を買って」と頼んだ。しかし、結果として祖父から送られたのは、模型の飛行機だった。

 それから、模型の飛行機はクラスのいじめっこにとられてしまい、返ってきた時にはただの木材の破片となり、結局数ヵ月のうちにゴミ箱へ放り込まなければならなくなった。

 せっかく買ってもらったのに、物を大事にできないなんて。母親がそういって、瞳をつり上がらせて怒っていた。

 他にも、そういうものが、トニーの過去にはたくさんある。なにかを選ぼうとすれば、多くのものに阻まれてしまった。そのなかで自ら選択できたものは、街から逃げることと、そのためにイギリスの学校へいけたことだ。

 そして、この街のおかげでやや後ろ向きな人生観を持つ人物へとなってしまった。

 頭の中で、人の笑い声が聞こえる。その声は、どれも冷やかしと、からかいの声だ。

 バカなやつ。なんてかわいそう。なにもさせてくれないなんていうけど、問題ばっかり起こすやつは何をしても無駄だよ。何急に大声だしてんの。お前がばかでドジで間抜けだから、おれらがこうして治してあげてるんだよ。

 駆け巡ってくる言葉。殴られた時の痛み。口の中に血が滲んだ時の鉄の味を、これでもかというほど覚えている。

 これ以上思い出してはいけない。理性が警告しているが、感情と記憶は、トニーの理性だけを取り残して次々と先へ進み、うごめいていく。体内で暴れる黒い固まりは、まるで獣だ。笑い声を大声でかき消した。人々の奇異な視線を、自身の目を閉じてさえぎった。それでも存在を主張しようと、腕を掴む人の生暖かい指の感触には、背筋に悪寒が走り手を振り払ってもがいた。

 思い出すな。動物になってしまった自分の心を押さえ付けるんだ。

 トニーは必死に髪の毛にもう片方の手をいれてかき混ぜた。煩わしい雑音と、視線、人の肉の感覚。全てが脳内で再生され、行き場をうしなった感情はまた新たな感情をうみだした。そして、歪な、あったかもわからない過去がつくりだされていく。あの頃の自分とは違うと、何度も周囲に言い聞かせるが、それは独り言として処理された。さらに笑い声が大きくなり、その笑い声の中から「いいや」という言葉を、投げつけてくるやつがいた。

 まだお前はあの頃と何にも変わってはいない。嫌なことがあると癇癪を起こして大声で喚いてる。何かあるとすぐに泣く。飛行機の模型が欲しくなかったって割りには、いらないってもっとしっかり主張しなかったじゃないか。両親のいったことをきちんと律儀に守りつづけてもいたじゃないか。何が大きな流れに抗えなかった、だ。抗う気なんて、ほんとはこれっぽっちもなかった癖に。かわいそうに。ほら、母親が待ってるよ。あんなに嬉しそうに出来の悪いお前の帰りを、今か今かと楽しみに待っている。

 ――さあ、トニー。バカで間抜けでドジなお前でも、この街はお前を待っててくれてるよ。

 頭の中に響く雑音に呑まれながら、トニーは足元の椅子をとり、雑音の方へ投げつけた。

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 ニコルとは小学校の近くで会うことができた。ニコラでいる必要はないと感じたのか、服装がいつも通りの黒一色だった。白く大きな校舎を前にたたずんでいると、コントラストがはっきりとしている絵か、古い映画のワンシーンのようだ。あまりよくない目つきがさらに悪化しているので、絵の場合だとタイトルが暗いものになりそうだ。映画だと、スリラーの予感がする。灰色の空も、葉のついてない木の枝もいい演出だ。

 授業中のせいか、学校のグラウンドには生徒の姿は見えない。

「セオドアに会おうとしていた?」

「ああ。でも、よく考えたら学校で授業うけてるよな」

 大袈裟に肩を竦めながら、ニコルは答える。時間は今、十時頃。

 昼休憩で校舎から生徒が出て来て遊ぶまで、あと二時間。さすがにその時間まで、ここでじっとしている訳にはいかない。そもそも、トニーはまだ、朝食すらとっていなかった。自分にしか聞こえない大きさで、腹の虫がなる。

「朝食でもとるか」

「……食ってなかったな」

 どうやらニコルもまだ食べていなかったらしい。ここへ来る途中で見かけた、赤と黄色で彩られた無駄に鮮やかで変わった形をした建物が特徴の、チャイニーズ店を思い出し、ニコルに尋ねる。

「チャイニーズでいいか?」

「いいぜ」

 これで予定は決まりだった。ここから街の中心にまっすぐとのびている道を歩き、一番最初に見えてくる店にいって、朝食をとる。あとはしばらくふらふらと周辺を散策して、またここに戻ろう。そう決めたトニーたちが校舎をあとにしようとしたときだ。

 校舎から、一人だけ生徒が出てきた。人を驚かせるびっくり箱のように勢いよく飛び出てきたのは、黒く、短い髪の少年。昨日とは違う服装をしていたが人目でわかる。ダニエルだ。ダニエルは頬や目元、みえるところに赤や青の痣を作り、周囲を睨み付けながら学校から立ち去ろうとしていた。

「ダニエル何があった?」

 異常事態と感じ、声をかけた。ダニエルは大きく目を見開いたが、すぐに刃物のように鋭い眼光を向けてくる。

「セオドアになにしんだ!」

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「何があったんだ」

「……」

「喋ってくれないとわからないんだが」

 トニーが声をかけてもダニエルはずっとだんまりを決めていて、何を言っても睨むことしかしなかった。

 かれこれ数分間、ずっと同じ距離のままお互いを見合っている。もし、近づこうとすれば、きっとこの少年は、脱兎のごとく逃げてしまうだろう。危うい距離感だった。

「セオドアがどうかしたのか?」

 声を投げかけたのはニコルだった。

「あんた、誰だよ」

 ダニエルが、子供らしくない低い声で唸る。

 しまった。昨日、ダニエルと出会ったのは二コラだ。ニコルじゃない。トニーは気が付いて冷や汗が流れていくのを感じた。相手の警戒心を一層強めてしまって、壁を作られると、何かがあったことは知ることがでこても、何があったのかは知ることができない。

「こいつの友達。で、セオドアの知り合い」

「……知らないし聞いたことない」

「昨日知り合ったからな。で、セオドアは昨日パーティーが終わってから会ってないんだけど、何かヤバイことでもあったか?」

 ニコルの言葉に、ダニエルは探るようにこちらをみる。確かに、嘘は言っていない。

 ダニエルは何度か迷うように視線を動かし、最後に力のない声で「学校に来てない」と言った。

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 ダニエルの怪我の治療と、話しをするために、元来た道をそのまま通ってモーテルに帰って来た。薄暗いフロントで何をするでもなく、口笛を吹いて客がくるのを待っていたクラスメイトが、ダニエルの姿を見て困ったように顔をしかめる。

 怪我をしているところを見つけて、治療したら家に送るというと、眉は下げたままだったが口の端をあげ、頷いた。ついでに救急箱も出してきてくれた。礼を言うとまた苦笑い。大丈夫。不審者より親子に見えるとよく分からないお墨付きを頂いた。

 ダニエルの警戒心はいくらか解けたようだった。手負いの獣から、野生の獣に変わったくらいだが。

 それでも、治療をさせてくれる気はあるようで。消毒液を塗ったり、絆創膏をつけるニコルの手際のいい処置を見ながら、おとなしくされるがままでいてくれた。

「坊主、喧嘩したな?」

「ダニエル。そうだよ。デスモンドとアイザックが俺とセオのロッカーにいたずらするから」

「なるほど。殴ったのはデスモンド? アイザック?」

「どっちも」

 二人して、黒い笑みを浮かべる。その笑顔でダニエルはニコルに心を開くようになったようで、いじめっ子二人との喧嘩を、どのように勝利したのかを話し出した。ニコルはやるなあと褒めている。楽しそうで何よりだ。トニーは部屋の壁にもたれ掛かりながら思う。手入れのされていない壁はよく見ると禁煙を促すポスターだけでなく、埃や蜘蛛の巣など、色々なものを張り付けていた。

「おれこの街嫌い。すぐ誰かをいじめるか喧嘩を焚き付けてくるかするし、いい加減なことするやつばっかり」

 消毒液がしみるのか、顔を歪めながら、ダニエルは話す。出会った時から刻まれていた眉間のシワが、さらに深くなっていった。

「セオも、親からよく分からない薬を渡されて、それを飲んだら普通になれると思ってるし」

 薬? トニーが聞くと、ダニエルは頷く。

「不安を取り除く薬とかなんでも出来るようになる薬って言ってた。でも、それ飲んだら動けなくなって、不安が強くなるんだ。ちっとも効いてない」

 やめればいいのに。ダニエルは吐き捨てるように呟くと、静かになってしまった。

 不安を取り除く。なんでも出来るようになる。なるほど。子供にはそう言っているのか。あの子、ちょっと発達障害があるみたい。ティナはそんなことを言っていた。だとしたら、不安を取り除く薬は精神安定剤で、なんでも出来るようになる薬はノルアドレナリン再取り込み阻害薬。頭の中を落ち着かせて必要な思考だけを行う。考えすぎないようにする薬だ。製薬会社で勤めているトニーは、その薬を見たことがあったので知っていた。使用している人間が、どういう風になるのかも。

 昨日のセオドアを思い出す。統一されてない音の群衆が、皆同じ笑い声に変わった瞬間、人のいない風の音が聞こえる湖、人々が行き交う歩道。怯えていたり、笑っていたり、沢山話していたり、自分を否定し始めたりと、せわしなかった。確かに、障害はあるのかもしれない。

 だが、それはトニーから見たセオドアであって、ダニエルから見たセオドアではない。

 この子は、ダニエルはセオドアの事を病気や障害があるとは、思っていないんだ。

 トニーは少し黙りこんで「病気だって思ってないんだな」とダニエルに聞く。

「思ってない」ダニエルが顔をあげた。

「あいつ、算数苦手だって言うしテストの点は確かに俺より低いけど、静かな場所でじっくり考えればできるんだ。一緒に勉強してるから知ってる。一緒に勉強したら、俺が終わらせるよりも早く終わってるときの方が多い」

「そうか。他には?」

「緊張したらぐずぐずで、この前も発表会のとき壇上で取り乱してたけど、そうじゃなかったらぐずぐずにならない。でも、大人たちはぐずぐずなときのセオしか知らない」

 大人の前では緊張してるから。緊張して、ぐずぐずになることが病気だって言うんなら、病気かもしれないけど、人よりできる事が少ないってところが病気だっていうなら、違う気がする。ダニエルは一通り話終えたらしく、息をついた。ニコルがお疲れ様と声をかけ、今まで止めていた治療を再開する。

 そのとき、誰かのスマートフォンの着信がなった。全員が自分のスマートフォンを確認する。トニーではなかった。ニコルでもない。

 ダニエルのスマートフォンがなっていた。

「セオからだ」

 画面をみるとそういいだし、すかさず彼は電話に出た。

「セオ?」

「ダニエル助けて!」

 こちらにまで届く大きな声が聞こえた。ニコルが立ち上がって、バスルームに消えた。

「セオどうした? 一体何が……」

「どうしよう! 僕、どこにいればいいのかわかんない!」

「落ち着け。大丈夫だから。いまどこにいる?」

「家なんだけど、家じゃないんだ! 怖い人ばっかりでみんなが僕をゴミ箱に捨ててしまうか売ってしまおうって」

「セオ。大丈夫だから。落ち着け。な?」

 容量を得ない言葉に困惑しながらも、ダニエルは落ち着くようセオドアに声をかけている。

「いくぞ」

 バスルームから出てきたニコルはそういうとダニエルを軽々と小脇に抱え、そのまま話してろといって、部屋を出ていった。髪や服装はニコラになっていて、バスルームに駆け込んだのは、着替えていたからのようだ。

 ニコルの言葉に、トニーは短く返事をして、部屋の前の廊下をかけていく。無事でいてくれるといい。これから待ち受けることにそう願いながら。

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 子供とは言え、百センチほどの人間一人を抱えて走るのは本来、どんな大人でも難しいはずだ。その距離が長いのであればなおさら。

 現に今、セオドアの住んでいる家までダニエルをかかえて走った二コルは息を切らしている。鍛えているとはいったが、どちらかというと二コルはトニーと比べて細身だった。そのうえ服装はいつものではなく女性のものだ。黒いスキニーパンツではあったが、走りにくかっただろう。どこかで交代すればよかったと悔しさが募る。

 しかし、そんなことを考えている暇は今の今までなかった。セオドアから助けてという電話が入ったのだ。急いでいかなければ、もしかするとということがある。つまりはそちらの方を優先し、二コルのことを考える余裕がなかったのだ。

 青い壁の、木材を使用されたこぢんまりとした家。家の右側には大きな樹が一つだけ立っている。数メートル離れたところに隣家があるが、今は静かだ。この時間は仕事か学校で人がほとんどいないのかもしれない。

 二コルに抱えられていたダニエルは、家の前についたとたん、二コルの腕を無理やりほどき、飛び降りるようにして、家のドアをたたいた。大声で必死にセオドアの名前を呼ぶが、彼からの返事はない。代わりに、扉が軽そうな音をたて、ティナが現れた。

「あら、ダニエルどうしたの? それにトニーと二コラさん、でしたっけ。すごい顔してますけど、何かありました?」

 ティナはこちらの表情を見て、困惑しているようだ。

「セオドアからダニエルに助けてって連絡が入った」

「あら、そうなの。もうテッドったら、お友達を困らせて。ごめんねダニエル、トニー。なんでもないの。今日はテッドは調子が悪いのはたしかだけど、明日にはよくなるから」

「姉さん。本当に?」

「ええ。本当よ」

 姉は困った顔をしながらも笑顔だった。手の焼ける息子の心配をしてくれてありがとうさえもいう。それがなんだかとても気持ち悪いものに感じられた。じゃあ一体、あのスピーカーから流れてくる叫ぶような声はなんだったんだ。

「さ、ダニエル。あなたは学校に帰りなさい。ありがとうね。障害を持って生まれた私のテッドにまでこんなに優しくしてくれて」

 姉の言葉に、ダニエルは無言だった。何かを懸命にこらえようと奥歯を噛みしめているせいで、表情もかたかった。その姿に、姉は一つも気が付かない。まだ、笑顔が貼り付いている。

「姉さん、セオドアと話せるか?」

「うーん。そうね。興奮させなければ大丈夫だとは思うわ。なるべく大人数は避けて、大声をださないで、優しく声をかければきっと……」

「じゃあ、話をさせてくれ。冗談だったとしても、助けてといったセオドアが心配だ」

「……トニー、あなた、優しい子になったのね。昔は誰かに優しくする余裕なんてなかったのに」

「いいから。会わせてくれ」

「はいはい。弟の頼みならしょうがないわ。でも、ダニエルはちゃんと学校へ帰ること」

 ティナははかたくなに、ダニエルに帰るよういう。なぜ、そこまでダニエルを帰らせようとするのだろう。ダニエルとセオドアが話をすると、まずいことでもあるのだろうか。

 疑問は残る。しかし姉の言うとおりにしたほうが賢明だと思えた。無理やりダニエルを連れて入ることもできるが、それは最終手段だ。そして、今ここで無理に押し入ったら次はなかなか入れてもらえそうにない。

 息を整えていた二コルに近づきながら、女性であるときの名前を呼んだ。大分肩で息をする必要がなくなったのだろう。赤くなった耳にそっと手を触れて、まるで恋人に頼みごとをするかのように「頼めるか?」と聞いた。

「大丈夫よベイブ。私がダニエルを送るから、あなたはセオドアと話をして」

「……ありがとう」

 トニーが見せた演技に、二コルも即興で対応してくれる。頬を手で包み、少しの間、見つめあった。

 何かあれば、そこの樹に登ってでも部屋にはいるからな。ニコルがそう言っているように思えた。さすがにそこまではしなくていいとは思うとトニーは目で訴えて見たが、伝わったかはわからない。

 ゆっくりと、名残惜しそうに二コルの指が離れていく。

 ニコルとダニエルが数メートル離れたところで、セオドアと話をするために、彼らを見るのをやめ、扉に向き直った。

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 セオドアの部屋の中は 光を通さないカーテンで覆ってしまっているのか、真昼だというのに暗い。扉から入り込む光で、なんとか部屋の中は見えているが、セオドアがどこにいるのかはトニーにはわからなかった。

 ぽっかりと空いた黒い穴が、昨日見た夢み出てきたあの部屋とどことなくにていて、トニーは息を飲む。

 それから、部屋の中からすすり泣く声が聞こえてきた。苦しんでいるようにもとれる。脛や肩、とにかくどこかしらを思い切りぶつけたときに、あまりの痛みで息が詰まった時にでるような声だ。

「セオドア?」

 

 闇の中に声をかけると、小さな悲鳴が聞こえ、呻き声はやんだ。「誰?」と、質問がどこからかとんできて、トニーだと伝えた。

 

「入ってもいいか?」

 

 暗闇でもぞ、と、何かが蠢いた。よく、目を凝らしてみると、ベッドの上に何かがいる。暗闇でよく見えない。まるで、日の光を嫌う虫の様で、緑がかった二つの瞳は、じっ、と明るい廊下を見つめている。

 

「……いいよ」蚊の鳴くような小さい声が聞こえた。これでは、まるで本当に虫を前に話しているようだ。

 暗闇の中に入り、手探りで灯りを探す。壁をさまよっていた右手は、とうとうスイッチらしきものを見つけ、押すと、ぱっと、部屋は明るくなった。

 小さな子供がいる部屋だ。床に転がった、今人気のヒーローのおもちゃ、何度も読み返してぼろぼろの星の図鑑、それから、男の子の好きそうな模型飛行機。あまり整頓されてない机の上には、たくさんのプリントや本が、乱雑に置かれている。

 セオドアはやはり、ベッドの上にいた。夜と星をモチーフにしたシーツがかけられ、セオドアは仰向けになっている。

 

「ごめんなさい」

 

 謝るセオドアに、大丈夫だと、言うつもりでいた。

 心配はいらない。困ったことがあったら助けになる。何があったか話してごらん。頭の中では、いくつも彼を落ち着かせる言葉や、労う言葉が浮かんでいた。それのどれか、あるいはすべてを言うつもりだった。

 しかし、それはどれも口からは出てこなかった。

 それらすべてを、別のものが、奪っていってしまったから。

「――っ!」

 ギシ、と、耳障りな音が聞こえた。

 それは、ベッドからではなく、セオドアの両手、両足から聞こえている。

 彼の腕や脚は、彼の肌よりもさらに白いものにまかれていた。

 すべてを諦めたような笑顔を浮かべて、ベッドの上に拘束されている少年は笑う。

「ごめんなさい。こうやって縛られてないと今の僕、暴れちゃうから」

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 セオドアが拘束されている理由を言った。一度暴れると、大人でも手付けられないくらい、危険な状態になるらしい。胸の中で積もっていく不安や怒りが頂点に達すると、どうしても我慢できなくなるのだとか。

 縛られて、嫌にならないか聞くと、セオドアは首を振って「ううん」という。

「だってこのほうが何時暴れても動けないでしょ?」

 それからまた、諦めの笑顔。数秒ほど沈黙が訪れ、トニーの反応に違和感を感じたセオドアが、一度はっ、と何かに気が付いたかのように声をあげた。それから、小さな声でごめんなさいとつぶやいた。それきりお互い黙り込んでしまい、セオドアは目を合わせることが耐えられなくなったようで、伏し目がちな視線を、自分の胸元に落としていた。

 トニーもなんとなく周囲に視線をさまよわせてみたが、ぬいぐるみや飛行機の模型が視界に入ってくるばかりで、気の利いたセリフが転がってなどいなかった。結局、何をしていいかわからず、できたことはセオドアの名前を呼んで、優しく、頭をなでるくらいだ。

 彼が望んで縛られているのを無理やりとったところで、きっとまた、同じ事をするよう誰かに頼むだろう。

 苦い虫を、どれだけ噛みしめたらいい。自分にできることは、何かないだろうか。ほとんど故郷に帰っていなかったうえ、セオドアと会ったのは昨日のことばかりではあるが、他人事にはしたくなかった。自分と同じように、いや、自分よりも辛い思いをさせたくはない。

「ダニエルに、助けてって言ったのはどうしてだい?」

「あ。……それは、おかしくなっちゃう前にね、どうにか踏みとどまれないかなって思って。どうしても助けてほしくて。……でも、もういいよ。僕はこうして縛られていないといけないってわかったから」

 だから、ダニエルにもう大丈夫だよって言っておいて。

 セオドアは、それだけ言うと、眠気が襲ってきたのか瞼を閉じ、眠ってしまった。かすかな寝息が聞こえてくる。

 そのタイミングを見計らったように、ティナが入ってきた。セオドアをほほえましく見ながら、優しく頬を撫で、話をする。

「この子はね、発達の方に障害があって、そのせいで精神にも問題が起きてるみたいなの」姉はずっと、セオドアのことについて語った。

 はじめに気が付いたのは、片付けがなかなかできなかったということかららしい。これを片付けてといっても、どう片付ければいいのか、片付け方がわからないとか。それから、落ち着きがなかった。常に不安の種を見つけては、どうしようと言っている。そして、その状態が一時間以上続くと急に暴れたり、泣いたりする。どうしたのかこちらが聞いても、支離滅裂でわからない。困っていたところ、発達障害という言葉を耳にして、病院に行って、診断してもらったらしい。

 この子はほかの人よりできない子。でも、大切な我が子。だからこうして精いっぱい育てている。

「姉さん。確かに、あの子は発達障害があるのかもしれない。でも拘束する必要はないだろう」

「あれはあの子が望んだの。人を傷つけないようにしたいって。誰かを傷つけないようにしたいって思うなんてとても立派じゃない。あの子はいい子に育ってくれた」

 ティナは涙ぐみ出した。これまでの道を振り返っているところなのだろう。姉の話は、確かに本当のことだとトニーも思う。そしてトニーはセオドアがこうしていたほうが落ち着くといって、拘束されているとき、その道具を外すことはできなかった。何も言えなかった。

 だが、本当にこれでいいのだろうか。拘束しないと生きていけないのは健全か? 健全ではない。

「姉さん。やっぱり、拘束するなんっておかしいよ。この街から出て、もっといい環境へ身を置いたほうが、セオドアや姉さんのためになるって」

「……無理よトニー。他のところへ行っても、テッドはいじめられるだけ。悲しいことになるわ。でも、ここならいじめられる心配はないの。街の人はみんなテッドのことを知ってて、何かあったらすぐに私の耳に入れてくれるのよ。全然知らないところにいくよりよっぽどいいと思わない?」

「……思わない。俺はこの街から出て、いじめられなかった。いいこともいっぱいあった。もしかしたら、セオドアだってそうなるんじゃないか?」

「それはあなたがそうだっただけよ。あなたはテッドと同じ、ダメな子だったかもしれないけど、テッドとあなたは全然違う。ねえ、どうしてこの街が気に入らないの? こんなに自由で、優しい人たちばっかりで、テッドみたいなできない子でも悪いものにとりつかれているせいとか、病気のせいって言えば、平等に見てもらえる。とてもいいところなのに」

 話は平行線で、決着がつきそうになかった。自分にとって、生きにくい居場所がなかったこの街は、姉にとっては生きやすい街だった。そして、セオドアにとっても、生きやすいところであると、そう信じて疑わない。

 どこが、この街の住人が優しいというのだろう。他人の不幸に聞き耳を立てている連中は何人もいたし、ダニエルはいじめっこがいるといっていた。大人からみたらじゃれているだけのものかもしれないが、彼らにとっては、そうではない。自分の耳に情報が入る? それは自分にとって都合のいいものだけじゃないのか。夢の中で、目と耳を塞がれていた両親や顔に黒い靄が貼り付けられている人のように、見えるもの、聞こえるものは都合のいいように切り取られらものだけ。または歪められた情報を聞き取るだけだ。

 姉も目と耳を塞がれた人間の一人になってしまった。いや、最初からその一人だったのかもしれない。その上悪いものにとりつかれたとか、病気だとか、あの子に、そういう役を押し付けて。叫ぼうとした言葉は、なんとか無理やり飲み込んだ。

「ティナ。テッドの様子は?」

 玄関から入ってきたのは、ティナの夫で、セオドアの父親だった。ティナはほっとしたかのように息をついて夫の元へかけていく。その様子に、彼は何かを察知したようだ。ティナを隠すようにトニーの前に現れると、「ミスター」と、トニーに声をかけた。

「セオドアのことが、気になったのはわかります。あなたとセオドアはよく似ていると妻から聞いていましたから。他人事ではないのでしょう。ですが、そっとしておいてほしい」

 これは自分達の問題で、ティナと自分は、ずっとその問題と戦い続けていた。落ち着いた声が耳から入っては、頭の中に留まっていく。今までほとんど故郷に帰っていない昨日、今日セオドアとあって話をしたトニーより、自分たちの方が街のこともセオドアのこともよく知っている。これは他人が口を出していい問題ではないのは、大人であるトニーには理解出来るだろう、と。確かに、理解はできる。自分みたいな、いきなりふってわいた人間が、何も知らずにわめいたところで、育てるのも、責任を被るのも彼らだ。自分ではない。

 だが胸の奥で眠っていた、子供の頃の自分が盛大に喚いていた。違う、違うと、大声をあげる声に何度も頭を揺すり動かされてしまう。

 違うんだ。僕はこんなの、望んでなんかない。たとえ僕が、ドジで間抜けで、気の利かない、自分勝手な奴で、病気を抱えた子供の役だったとしても、そんなのは全然構わない。どうでもよかったんだ。僕が本当に望んだのは。思っていたのは――

「出ていって」

 頭の中の言葉を打ち切ったのは、ティナの言葉だった。

「この街が気に入らなくて出ていったあなたに、これ以上何か言う資格はないわ。この家から、この街から出ていって。関わらないで」

 夫が帰って来たためか、強気になったティナが、トニーを無理矢理家から追い出そうとする。はっきりとした拒絶だ。玄関の前までトニーの背中を押して、最後に思いっきり力を込めて家から押し出された。なすがままにされていたトニーは、背後から扉を閉める音を聞きながら、冷たい風の中に立つ。

 しばらくは、その場から離れることができなかった。

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 トニーが学校へ行く道の途中で、二コルと合流できた。そこにはダニエルの姿もあった。が、二人はいがみ合っていた。

「離せ! この嘘つき女!」

 耳に届いてきたのは、ダニエルの怒りの声だ。怒りに任せて腕を振り回すダニエル。苛立ちながらも「わかったから話を聞け」と言って宥めようとするニコル。自分がセオドアの家にいた間に何があったのか。地面の雪を踏みつけて足早に彼らの元へトニーが着くと、お互い嫌そうな顔をしながらも、一応、喧嘩は止まった。

 怒りがまだ胸中にあるせいか「セオは?」と、聞いてくるダニエルは今にもこちらにとびかかってきそうな勢いだ。

 その勢いに気圧された訳ではない。が、トニーはダニエルにセオドアの事を話すのを躊躇ってしまった。

 大丈夫だと、嘘をつくことはできない。かといって、セオドアの「大丈夫」という言葉も無視できなかった。そして、姉夫婦の言葉が今頃になって、じんわりと遅効性の薬のように効いてきている。

 これは自分たち、家族の問題であって、他人が口を出していいことではない。

 心配しているのはわかるが、子供であるダニエルに話していいのだろうか。胸がまたざわついている。いくつもの言葉が生まれ、それを否定する言葉も生まれた。

 耳障りな音が聞こえる。拘束具を付けられ、少しでもセオドアが動くたびに、ギシ、と鳴るベッドの音。姉の泣く声。姉の夫の、言い聞かせるようなゆっくりと語調の強い言葉。笑い声。罵倒する声。何もかもが耳元でぶつかり合って騒々しい。

 だが、そんなトニーの中を知らないものは、待ってくれそうになかった。ダニエルの瞳は、どんどんと影がさしていく。何も言わないトニーに対し、焦りと苛立ちの感情が浮かび、失望がひしひしとのぼってきて、トニーが何かを喋る前に、打ち切りの合図を舌でならした。

「やっぱり、あんた達もあいつらの仲間かよ。そこの女も嘘つきだし、子供だからって、知らなくていいとか馬鹿にしやがって」

 図星だった。トニーが喉を鳴らして生唾を飲み込む。それが決定打となった。ダニエルは苛立ちと軽蔑をミキサーで混ぜた笑いを溢す。

「どうせ子供の事なんて、大人はどうでもいいんだ。……なんでいつもセオは、こんなやつらを庇うんだろうな」

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「顔色が悪いね」

 午後三時。モーテルへ帰ったトニーに、フロントの住人がそう言って声をかけてきた。トニーの顔色は真っ白を通り越して青くなっていて、それを心配してのことだろう。その気遣いに礼を言いたかったが、口の周りの筋肉は引き締められていて一つも言えそうになかった。とりあえずはお茶でも飲もう。それでも友人は顔色を変えずに接してくれている。フロントのすぐそばにある白いペンキが剥がれかけの扉を開けて、手招きをしながら中へ入っていった。どうやらそこはスタッフルームらしく、埃がついて掃いても綿の塊を撒き散らすだけになった箒が隅に立て掛けてあり、机の上には書類や請求書が山のように積まれていた。雑然。そんな言葉がよく似合う。

「コーヒーしかないんだけど、いい?」

 これ以上にない優しさを投げかけられて、首を横に振ることは、できない。緩慢な動作で頷くと苦笑が返ってきた。

 粉とお湯だけで簡単にできてしまうコーヒーを手渡され、一口飲んだ。コーヒー特有の苦みが口の中で広がって、朧気に溶けていく。そして、熱い塊は喉に滑り落ち、胃に達したあたりで、何も感じられなくなった。

 だが、その一口だけで緊張していた全身が緩んでいったのがわかる。

 先ほどまでまったく動かせなくなった口から「ありがとう」と言えるくらいには。トニーの様子に友人は笑みをこぼしている。落ち着いたようで何より。そう言う言葉が聞こえてきそうな笑みだ。

「で、一体何があったの。一緒に出てった彼女さんは?」

 友人はモーテルを出ていった後、トニーの顔面を蒼白にした原因が何か、気になっているようだった。

「……セオドアを助けたいと思ったんだが、うまくいかなかった。言われたよ。そっとしておいてくれって」

 トニーは眉を下げながら小さく笑った。他にも色々言われたが、一番重く心に沈殿しているのは、この一言だろう。しばらく思い出しては落ち込みそうだ。今も自分で言ったことなのに、胸が痛むから。

 そして、ここにはいないニコルは、どの言葉がこたえたのだろうか。唇を噛み締めてダニエルが消えていった方向をしばらく見て、それから何も言わずどこかに行ってしまったので、二人きりの間に何があったのかわからないままだ。ただ、珍しく悔しそうな顔をしていた。それだけははっきりと覚えている。

 そう言ったことを話すと、友人は「あ~」と気があるのかないのかわからない反応を示した。時々、難しそうに眉を寄せて腕組みをする。その様子につい口が緩んでしまう。黒いものがどんどんと腹から吐き出されていった。

「ずっと、この街の大人のようになりたくないって思ってた。でも、俺もやっぱりこの街の住人だった」

 言い訳ばっかりで、逃げ出して、見てみぬふりをして、帰ってみると自分に良く似た子供の姿があって、それを助けようとする。

 これ以上都合が良くて、身勝手なことはないな。夢の中で目と耳を塞がれていたのは自分以外の人間だったが、本当は、目と耳を塞いでいたのは、自分じゃないか。自嘲した笑みが浮かぶ。目の前の友人がなんだか複雑そうな顔をしていた。庇いようのない真実に優しい言葉はかけにくいからだろう。

 しかし、彼はトニーの予想にはなかった言葉を投げ掛けた。

「トニーってさ、割りきるとか、切り捨てるって昔から苦手だよね」

 ほら。子供の頃、ダフィールドのやつが俺らにいらないもの押し付けてきたときあったじゃん? あのとき俺やキースとかはいらないってすぐ捨てたのに、お前だけ捨てられなくてどうしようって言ってて、で結局俺らが奪う形で捨てたっていう。覚えてる?

 友人が話している記憶は、かすかだが残っていた。確か、ダフィールドが旅行に行ったあとの話だ。俺みたいな金持はこんなところへ行けるんだと自慢していた。それで、ほとんど覚えていないがとにかくたくさんの自慢を話したダフィールドがお土産を配りだした。

 サトウキビの茎とか、虫の形をしたお菓子とか、クローゼットの肥しにしかなりそうにないセンスの悪いシャツとか、貰っても困るようなもの。

 だが、ダフィールドは「俺だったら絶対欲しいって言うのになあ。いいのかなあ。他人の優しさを無下にしてぇ」と語尾を伸ばしながら恩着せがましい台詞を言って押し付けてまわった。トニーはその辺でも買えそうなペンチの形をしたペンを渡された気がする。正直いらないと思った。クラスメイトの数人、特にダフィールドとはマリアナ海溝並みに埋まらない溝が存在しているキースは「こんなの貰ってもうれしくない」と、ダフィールドに投げ返していた。

 友人も、使い道がないという理由でバスケットボールのゴールに見立てたゴミ箱へ、投げ入れていた。

 トニーだけが、捨てられなかった。

 捨てようとすると、聞こえてくるのだ。ダフィールドの声が。いいのかなあ。他人の優しさを無下にしてぇ。甘ったるくてぶった猫なで声だ。気持ち悪い。

 だが、捨てるという選択肢を奪うには十分効果抜群だった。いくら貰って困るものとは言え、わざわざ買ってきてくれたお土産を、いらないと捨てるのはどうなのだろう。酷いやつだと思われないだろうか。罪悪感がじゅくじゅくと肉を腐らせながら募っていく。

 貰いものを素直に喜べないどころか、捨てようと思っているなんて、自分はなんて酷い人間なんだ。ずっとそんなことを考えていた気がする。

 そんな中、トニーのお土産を処分したのはキースだった。あいつが悔しそうに地団駄踏んでるところがみたい。そんな最低な理由でトニーはダフィールドのお土産を奪われた挙句、手に余ったそれは、ごみ箱行きが決定してしまったのだった。覚えている。捨てられた時に笑っていた友人やキースの顔も、その時感じた罪悪感も。それでいてどこかほっとしたのも。今、思い出した。

「きっと今も、割り切ったり切り捨てることができないから悩んでるんだと思う。確かにこの街から出ていったけど、トニーはこの街の住人だし、帰るところもちゃんとあるじゃん。セオドアくんを助けたいなら助けていいと思うよ」

 割りきってそっとしないのもひとつの手だ。どこまでも優しい言葉をかけてくれる友人。その姿はとても眩しく、トニーの気持ちを卑屈にさせる。

 俺は逃げ出したんだ。帰ってこないつもりだった。何もかもを放り投げて、家族も切り捨てた。姉からも、出ていけと言われてしまったじゃないか。この街に、居場所はもうどこにもなかった。帰るところなんてない。それにあの部屋は落ち着かなくて――。

 瞼の裏に広がるのは、実家の自室だ。母親が買ってきた草色のカーテン。父親が男なら持っていろと言って置いていった、当時人気だったキャラクターのペットボトルキャップ。捨てられず溜まり続けていた学校のプリント。新調しようにもできないでいた子供っぽい柄のシーツ。捨てられないものが多すぎて、全部放って、そのままにしてしまった埃を被り続けているあの部屋。

「ああ。そうか」

「え? 何?」

 ふいに気が付いた。漏らした声は思っていたよりも室内に大きく響いて、友人が目を見開いて肩を揺らした。

 わかったんだ。自分が何をするか。何をしたかったか。それで、セオドアに何をしてやれるか。

「俺の部屋をめちゃくちゃにすればいいんだ」

 部屋をめちゃくちゃにする。その言葉に隣で何に気が付いたのか僅かに心を弾ませながら耳を傾けていた友人が、疑問いっぱいの「ん」を何度も発音していた。

「捨てたかったんだ。要らないものとか全部」

 何が気に入らないのか。ティナの疑問に、その時は答えられなかった。でも今なら答えられる。全部だ。捨てたいと思ったものが、何も捨てられなかったあの家も。この街も。それをこことここは気に入っているからとか、ここはこうだからと言って、言い訳をし、時には嘘をついて誤魔化していた。我慢していた。

 それで、何もかも放って、この街から出ていった。そうすれば楽になれると思って。逃げだした先は、我慢しなくていいところで居心地がよかった。感情が昂って部屋をめちゃくちゃに荒らしたとしても、別に誰も何も言われなかったし、割り切るとか切り捨てるの選択は、自分の考えでできたため、この街みたいに、他人の考えを押し付けられることも、流されることもなく、割と簡単にすることができた。

 だが、それだけではだめだ。今みたいに、この街に帰っただけで、元通りになってしまう。

 姉は正しい。そして、姉も自分も、失念していた。まだ自分には、あの部屋が残っている。

 大っ嫌いで帰りたくないと思いながら、用意されている自分の居場所。不幸な思い出しかないのに、あの場所をそのままにしていた。

「居場所なんて完全になくしてしまって、誰かに明け渡してしまえば良かったんだ! ありがとうセシル。お前のおかげでなんとかなりそうだ」

「あーっと、どういたしまして?」

 半分演説めいたトニーの言葉に、かつての友達、セシルが目を白黒させながら返事をする。その姿を横目で見ながら、居ても立っても居られないトニーはさっさと立ち上がって、スタッフルームを出ていった。彼の個々の中には決意と覚悟、それから、ドライアイスのように冷たいはずなのに火傷をしてしまうくらい熱い何かが渦巻いている。逸る気持ちを精いっぱい抑えないと、歓喜の大声をあげて、走り出しそうだった。

 そして、モーテルの入り口に立ったトニーは、そのまま走り出す。かと思いきや、いきなり踵を返し、もう一度モーテルの中、先ほどまでコーヒーを飲んでいたスタッフルームまで全速力で走り、セシルに言った。

「ゴミを捨てにいく車がない!」

「……オーケー。荷物運搬用の車、用意しておくよ」

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 バット。投げた。ボール。捨てた。おもちゃ。壊した。プリント。破った。

 トニーは部屋に来て早々、持ってきた段ボールの中に、いらないものを入れていく作業を始めた。手をつけられていなかった部屋は何も変わっていなくて、埃の積もった様子がなければ、どれだけの時が経過したかわからない状態だろう。

「急に帰ってきたと思ったら、掃除なんか始めちゃって」

 どういう風の吹き回しなのかしら。息子がせっせと物を箱につめていくところを見ながら、母親は腕組みをしていた。トニーは思わず苦笑する。どうということはない。ずっとやりたかったのに、やらなかったことを実行してるだけだ。今まで黙っていたし、そんな事をする素振りも何一つなかったから、急に見えるだけで。

 とにかく、トニーは掃除をすると決めたのだ。いらないものを捨ててしまって、その場所を新しく作り替えるために。自分に良く似ていて、居場所がないと感じている甥のために。

 生まれた頃からあったらしい緑色のカーテン。埃と染みが目立つ。ダサい。捨てる。机の上にずっと置かれたままだった、父親から貰った紙粘土の像。父親の好きな映画のキャラクターを模しているらしいが目の位置は高さが全然違う上に、子供向けアニメのような二頭身でありながら、手だけ美術の彫刻並みに細かくてバランスがおかしい。邪魔。センスがない。ゴミ箱に投げ入れる。

 二つほど箱がいっぱいになった。辺りを見回すとまだまだ捨てるものがあるようで。これは夜中までかかってしまうなとトニーは肩を回しながら考えた。できれば今日中には片付けたかったのだが。さすが、二十年以上物を溜め込んでいた部屋だ。思っていたよりも物が多い。

 一息ついたところで作業を再開する。その時、玄関が一瞬騒がしくなった。母ともう一人、女性の声が聞こえたかと思うと、かたい靴底が床を蹴る音が聞こえ、その音は徐々にこちらに近づいてくる。

「ちょっとハニー! なんで私を置いて先走る訳!」

 靴音の主は、ニコラだった。乱れた髪を気にすることなく、扉の前で仁王立ちしている姿は、とても迫力がある。

 まさしく、鬼気迫る勢いだろう。自分のことだから相談しなくて良いと思っていたのだが、それが良くなかったかもしれない。一応、彼女は恋人だ。

 ここは相談しておくべきだったか。冷たい汗が背中を滑り落ちていった。だが、よく見ると何かが違う。怒っているように見えるが、見開かれた目は、怒りというより興奮しているように見えた。

「そんな面白いこと、俺も混ぜろよ!」

 そういえばこの人物はニコル・ゲーサだったことを、今更思い出した。

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 満点の星空、なんてひとつもない。月すら分厚い雲で覆われていて見えなかった。雲隠れという。

 うってつけだな。トニーは物を捨てて綺麗になった部屋の窓を見てそう思った。月明かりのない暗い世界には、誰も家からでようとしない。隠れて逃げたり、何かするにはちょうどいい。隠れて逃げる気はひとつもないのだが。

 ただ、隠れてすることがあった。これからの事について。それは誰かをここに連れてくるということであり、連れてきた人物と話をすることであった。

 ここに来た人物は、この部屋と自分の話を聞いて、何を思うだろう。何一つ、トニーは想像できなかった。どんなに相手のことを思っても、うまくいくことは少ない。ましてやこの部屋を、セオドアに明け渡すことなんか。

 だが、なるがままにしかならないだろう。この部屋を使う気がないと言われたら、その時考えればいい。

「連れて来たぞ」

「お邪魔しまーす」

 あまり大きくない声でニコルとセシルが部屋に入ってきた。二人はトニーより楽しそうでニヤニヤと口に白い三日月を貼り付けている。その後ろには、ぼんやりと立っているセオドアが見えた。トニーが自室に一人だった理由。二人にはセオドアを迎えに行ってもらっていたのだ。

「用事って、何?」

 ほとんど会ったことのない二人に連れてこられ、固まった状態のセオドアが、問いかけてくる。見せたいものがあるんだ。トニーはそれだけ言うと、部屋の中央に置いてあった青紫色の丸い装置に手をかける。側面にあるスイッチをスライドし、部屋の電気を落とした。

 そこには、満点の星空があった。室内の壁に星が写し出され、天井には丸い円盤の形をした銀河を、横から眺めたかのように星が集まっていた。

 天井の光はすべて星。そして、壁も。

 トニーがセオドアにみせたもの、部屋の中央に置いた装置、それはプラネタリウムだった。しかも光学式というレンズを使って壁に星を映すタイプのもので、穴を開けたピンホール色のプラネタリウムよりはっきりと星が見える代物だ。

 息を飲む声が聞こえた。出所はセオドアからだ。大きく見開かれた目は、壁や天井の星に吸い寄せられている。眉を下げるか動くことがあまりなかった表情が、一変して活動しはじめた。星をつかもうとするかのように手を伸ばし、ある星を指差して、星の名を呼んだ。

「シリウス、ベテルギウス、プロキオン、カペラ、リゲル……全部、全部、僕が知ってる星がある!」

 小さく、呟くような言葉は最後には、叫ぶような声になった。それだけで、トニーの心のグラスは満たされていく。だが、目的はここからだ。

「この部屋を、セオドア、君が使ってくれ」

「え?」

 興奮で見開かれた瞳は驚きに変わった。ここ、おじさんの部屋でしょ? セオドアは疑問を投げ掛けてくる。それを笑って打ち消した。

「俺にはもう必要ないんだ。居場所があるから。セオドア、君が使ってくれ」

「他人の家だよ?」

「ああ。でも、妹は結婚して出て行く。セオドアのおばあちゃんとおじいちゃんくらいしか、この家にはいなくなる。そしたら多分、この家はとても静かだ」

 とても寂しくなる。トリシアはそう言っていた。実際、二人しかいなくなるのだ。今までの賑やかさはなくなるだろう。それを寂しいと言うか、静かというかは人それぞれだ。きっと、子供の頃のトニーはそれを望んでいたのだ。賑やかな所なんていらない。静かで落ち着ける所がほしかった。

 そしてセオドアにも必要なんだ。静かで落ち着いて安心できる所が。だからこの部屋を渡す。トニーにはもう、静かで落ち着けるあのアパートがある。ここは必要な人が使えばいい。

 トニーの言葉に、セオドアはじっとトニーの顔を見る。それから部屋をもう一度ぐるりと見回した。

「ふーん、そう。……おじさんはここを僕に押し付けて逃げる気なんだね」

 やはり、この子は聡い子供だった。人の言ったことからその裏にあるものを読み取ることに長けている。だがそれが出来たとしてもまだ未熟だ。人の多い場所にいるとパンクしてしまうだろう。処理しきれないんだ。その上いい加減で、嘘つきで、どれもこれも一貫性がない。誰を信じていいかわからなくなる。他人の言葉に翻弄されてしまう。

「そうだ。俺はこの街が嫌い。だから君が言う通り、ここを押し付けて逃げる」

「ずるいね」

 でも、とセオドアは続ける。

「プラネタリウムが見れる部屋を用意してくれる人なんていなかったよ」

 表情はない。死滅している訳ではなかった。セオドアの凪いだ心が顔や声に表れているだけだった。

「ねえ、プラネタリウムが見れるだけなの?」

「もちろん。それだけじゃない。大きい窓があるから星空も見れるし、移動できる仕切りも作った。だれかきてこの部屋にいても、一人きりになれる」

「……本当に、僕が使っていいんだね?」

「いいよ。俺はこっちに来ても友達のモーテルに泊まるから」

「じゃあ、貰うね」

 答えは出た。その言葉に、トニーは強くうなずいた。

「貰ってくれ。居場所がなかった俺が、必死に守り続けていた、ただひとつの場所だ」

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「セオドアはあの部屋を本当に使ってくれると思うか?」

「さあね。でも、少しは変わるんじゃねえの」

 セオドアを送り届け、モーテルに帰ってきたトニーとニコルは、宛がわれた部屋で酒を飲みながら話していた。テーブルの上にはすでに二つか三つほど、酒瓶が転がっていた。しかも、どれも度数が高いやつだ。トニーは喉が痛くなるほど辛い酒は好みではなかったが、この酒を用意したのはセシルであるため、文句は言えない。そのセシルは、仕事があるからと言ってフロントでぼんやりとモーテルの入り口を見ている最中だ。こうなることはわかっていただろうに。いや、わかっていたからこそ渡してきたのだろうか。酒が入った袋を渡してきた時の笑顔で「祝杯」と言ったのは、きっとそう言うことだろう。別に祝うほどでもない気がするが。

 とにかく、セシルが用意してきたおかげでこうしてゆっくり酒が飲めるのである。頭が若干宙に浮いてはいるが、まだ酷く酔ってはないため、飲めないことはない。隣で一緒に飲んでいるニコルもそうだ。顔色をひとつも変えず、静かなバーで酒を飲んでいる時と同じようにゆったりと落ち着き払った様子でちびちびと酒を嗜んでいる。

 伏し目がちな瞼。薄い唇。漏れる吐息。人前では決してとられることのない、黒の革手袋。そして袖の間から見え隠れする白い肌。その要素ひとつひとつが、どういうわけか昨日の夢を思い出させた。

「……昨日、夢を見たんだ。子供の頃の夢を。それで思っていた。子供の頃、お前と会っていたら、どうなってただろうかって」

 逃げずに立ち尽くすことしかしていなかった手を、掴んで引っ張った人物、きっとあれはニコルだろう。そうだと思った。トニーの言葉に、ニコルは特に変わった様子もなく、酒を飲んだままであった。

「もしかすると、何か変わったかもしれないって思った。もしくはセオドアとダニエルみたいになれるとも。でも、多分お前がそこにいたとしても、手をとることはないと思ったんだ。きっと、この街を出たからお前と会えたし、こうしてここにいることもできる」

「つまり?」

「俺はこの街が嫌いで良かったってことだ」

 何がおかしいのかニコルは笑い出した。

「お前さあ、そこはお前がここにいて良かったって話じゃねえの?」

 数秒。長いようでとても短い沈黙。

「ああ!」

 気がついたトニーは室内に響き渡るほどの大声をあげた。

 その様子に「お前はそう言うやつだよ」と、ニコルは喉を鳴らして笑った。

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「すまない。予定より一日早く帰ることになって」

「いいっていいって。ここって噂になったりとか色々あるじゃん? まだ一日あるからって無理に泊まる必要ないって」

 朝、三泊四日の宿泊予定を一日切り上げてトニーはモーテルをチェックアウトしていた。ニコルの姿はすでにない。セシルの話では先に一人分の料金を支払ってどこかにいってしまったらしい。トニーが目覚めた時、テーブルに「面白いこと無さそうだから帰る」と置き手紙があったからそうかとは思っていたが。勝手なやつだ。トニーは苦笑するしかなかった。セシルからも「お前の恋人って黒猫か何か?」と言われてさらに苦い笑いを口元に浮かべるしかない。実は、恋人でも何でもない。この際だからとトニーがセシルに伝えると、高い口笛が、セシルの唇から漏れた。

 そのあと、おつりをトニーに渡しながら「あのさ」と、セシルは続けた。

「確かにここはあの頃と今のお前にとって、居心地いいものじゃなかったかもしれない。今も嫌いだと思う。でも、次お前が帰ってきたとき、居心地がいいって思えるくらい素敵な街にしてみせる。お前がただいまって言える街にしておくから、また帰ってこいよ」

「……そうか。じゃあもっと接客をしっかりとした方がいい。フロントから下手くそな口笛が聞こえてきて、聞くに耐えなかった」

「お前だって、彼女と大声で喧嘩して泊まる予定のないガキを連れ込んできた上に店員を使いパシリにしたじゃん。ひっどい客にも程があるよ」

 そして、二人は笑いあった。

「じゃあな。バイ」

「バイ」

 手を振ってトニーはモーテルを後にする。外は薄い青空が広がっていて、冷たい風が頬を滑っていく。

 あのモーテルだけは、居心地がよかった。埃っぽくて、清潔とは程遠かったにも拘わらず。居心地がよかった理由を、トニーはなんとなく知っている。自分が今、住んでいるところと、似ていたからだ。

 そう思うと、どういうわけかあのアパートが恋しくなった。

 ――家に帰ろう。新しくできた、自分の居場所へ。

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 故郷から、自分はこの部屋に帰ってきた。しん、と静まり返ったアパートの部屋は、締め切っていたため埃っぽく、寒い。お土産も何も入っていない、行きと同じ量の荷物を置き、部屋の電気もつけずに出掛ける前に購入した新しいソファーに腰をおろした。たった三日間、されど三日間だ。疲れが波のように押し寄せてきて、体がソファーに沈んでいく。

 明日は、起きたら掃除をして、ジェシカのところで食事をとって、買い物をしよう。もしかしたら、ニコルやアーネスト達に出会うかもしれない。ニコルがからかってきたら、嫌みのひとつでも言って、アーネスト達には故郷のことを、おもしろおかしく話そう。

 沢山のことが頭の中で、沸き上がっていた。そして、少しずつ、眠気が忍び寄ってくる。

 子供の頃、眠ることが怖かった。寝たら明日が来てしまうから。もしくは、寝てる間に何かがあったら……なんて、そんなことばかり思っていた。

 今は怖くもなんともない。安心できる場所がある。ゆっくりと休めて、心を落ち着かせる場所が。

「ただいま」

 そう言うと、トニーはもう一度肺一杯に冷たい空気を取り入れて、深い眠りについたのだった。

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Epilogue

 朝になる前の時間は、とても寒かった。僕はまだ暗い外を眺めながらダニエルと話をする。

「トニーおじさんから、連絡があったよ。欲しいものはあるかって聞かれちゃった」

 せっかくだから、望遠鏡を頼んだんだって言うと、ダニエルがすげえなって言ってくれた。うん、すごいよね。これでもっと星のこと知ることができるとって思うとわくわくする。

 あれから週に一回、次の日が休みの日だけ、僕らはおばあちゃんの家に泊まることになった。トニーおじさんが僕用に用意してくれた部屋ができたからだ。

 トニーおじさんが言っていたようにおじいちゃんとおばあちゃんだけの家は静かで、二人は「孫が遊びに来てくれて賑やかになった」って喜んだ。お母さんとお父さんとは、少しだけ、話す機会が減った。でも、お父さんの話だとお母さんは僕を見ることにいっぱいいっぱいになってて、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行ってる間はゆっくりできるようになったから、寂しいけど、楽になったって。

 そして、明日は学校がおやすみの今日、僕らはこうして早起きして、夜明けを待ってる。夜明けの前の空がとてもきれいなんだって、トニーおじさんが教えてくれたから。どれくらい綺麗なんだろう。時間は午前五時。あともう少しで、夜明けになる。時間が進むにつれて、僕とダニエルはほとんど話さず、空を眺めるようになった。

 それからどれくらいたっただろう。ずっと外ばかり見ているダニエルが、目は動かさずに話し出した。

「そういえば、この前アニメ観てたんだけどさ、そこで言ってたんだよ。落ち着けるところが我が家だ。って。お前はやっと、自分の家を見つけたんだ」

 落ち着けるところが我が家。その言葉が、胸の中にすとんと落ちてくる。

 ああ、そっか。

 今まで、暗くて、誰もいなくて、灯りがないところで、ずっとさまよい続けてたんだ。 それで、やっと家に帰ってこれた。

「そっか。……ねえ、ダニエル」

「何?」

「ただいま」

 僕がそう言って笑うと、ダニエルも笑った。真っ暗だった空は少しずつ明るくなっていく。白く、半透明になった月の横で一つだけ、星がまぶしく輝いているのが見えた。

「おかえり」

Epilogue
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