逃げろ、アーネスト
アーネストは恐怖した。カフェの店長でありながら一切料理ができないジェシカ・アンブローズが料理を作ったからだ。
アーネストは料理ができぬ。ポリッジを作れと言われれば、レシピがあったとしてもレシピ通りに作れるか怪しい程度には、料理を作るということに縁がない。
しかし、料理をして、出来上がるものは決してこのようなものではないと確信できる。どんなゲテモノを食べることが好きな人間でもこれは料理ではないと断言する。胸を張って言いたくないが胸を張って言える。
目の前にあるものは、明らかな異臭を放っている。焦げ臭い、というものではない。明らかに薬品といえる匂い。そして、ドロドロに溶けているが溶けきっていない錠剤のような形のそれ。
これはただの薬だ。しかし、薬ではない。毒だ。劇物ともいう。
それを料理だと言って出してきはにこにことそばかすが付いた顔に笑みを張り付けている。
「腕によりをかけて作ったわ」
さあ召し上がれ。と、上機嫌な声で出してきた劇物を進めてくる。しかし、しかしだ。これを食べたらいくら凡人とロバートから言われ、普段から頭を使えとイアンに文句を言われるアーネストでもどうなるか結末くらい推測できる。
これを食べれば、最悪死に至るだろう。死ななかったとしてもしばらくトイレの住人になるか卒倒するか、どうなるかは不明だが何かしら悲劇は訪れるだろう。
そして、アーネストはもう一つ、とあることで恐怖している。それは、隣にいる人物だ。
顔を見るのも恐ろしい。確実に青筋は立っているだろう。右横から感じるどす黒い感情を乗せた何かは、確実にジェシカに向けている。
右隣の人間、ロバートは殺意そのものとなっていた。彼に声をかけようものなら冷ややかな灰白色の視線を受けた後に首を絞められ落とされるか殴るけるといった暴行に会うだろう。それだけは勘弁していただきたいとアーネストは願う。先ほどからずっと背中に嫌な汗を流し続けている。
「ロウアがいないのは残念だわ。あの子、料理が上手だからどこが悪いか聞きたかったのに」
ロバートの殺意をものともせずにジェシカはいう。どこが間違っているのかと言ったらすべてにおいてだということは明白だ。しかし、それをいういう気はアーネストにない。
ロウアがいればこんな惨状は起きなかったのではないかと、ここにいない彼女にアーネストは憤りを感じた。しかし、彼女がこの毒を食べずに済んでいると考えれば、この場に居なくてよかったと涙を流しながらも安心している自分がいた。彼女が、この毒物を口にしないようどうにかしてこの劇物を処理せねばとも思う。
「おい。なんだこれは」
アーネストがロウアが絶対に、このようなものを口にしないようにしなければと決心しているとき、相手を凍り付かせることができそうな、低い声が右隣から聞こえてきた。ロバートがジェシカに質問したのだ。
「何って、料理よ」
「そうか、料理と言いたいか。だが俺の知る料理にこんなものはない」
「それはそうよ。私が考えたんだから。成人男性が必要な栄養素を全部入れてみたの。それから最近胃が痛むと言っているあなたのために胃薬も入れたわね。他にもいろいろ加えたわ。大丈夫。ちゃんと組み合わせには気を付けてるわ」
絶対零度の声を聞いていながらも、ものともせずにジェシカはいう。まだいっぱいあるからおかわりできるわよと要らぬサービスまで用意して。
「質問を変える。どうして料理を作ろうと」
ロバートは、ため息をつきながら新たな質問をする。なんとかこのカオスな物体を食べるという行動を回避できるように動いているようだ。ロバートのその思いにアーネストは感動した。感動して頼むから自分も救ってくれと心の中で懇願し、確かになぜ彼女が料理をつくったのだろうかと疑問に思った。
ジェシカは食事を作らない。自分では作れないと知っていて、仕事では、料理のほとんどをアデルや二コラに頼んでいる。
そんな彼女が料理を作ったという。もしこれがこんなダークマターならぬカラフルマターでなければ何の心境の変化かと聞いていたとこだろう。しかし、目の前の物体が異色すぎてそんなことすら吹っ飛んでしまっていた。
「あら、あなた料理ができる女性が好きじゃなかったかしら」
だから作ってみたのよ。と、きょとんとした顔でジェシカはいう。その言葉に、アーネストは大層驚いた。これはあれか。彼女は少なからずロバートのことを思っており少しでも気を引こうとロバートの好みの女性に近づこうとしたということか。だとしたら、ちょっと本当にどうしてこんな劇物を作った。これが普通のフレンチトーストなら、多少焦げていようがかわいらしいとほほえましい気持ちになっただろう。しかし、出来上がっているものはこれである。絶望を詰めに詰め込んだとしか言いようのない物体。これを目の前にして「こいつっ~しょうがないなぁ」などと額にコツンと拳を当てるようなことができる人間がいるだろうか。いや、いない。
そしてこのロバートだ。感情は単なる欲求の塊で、切っても切り離すことはできないが、それに踊らされるような人間は危険だというような男だ。なんだったら恋愛感情を否定するようなことを言っていたこともある。感情をできるだけ取り払い、理性的に生き、怒っているときは怒りをコントロールしながら相手に合った罰則を考えるような人間だ。彼女がやったのは食への侵害。それを彼は許すのかといったらそんなことはないだろう。良くて今回作り上げた物体は処分され次回からは誰かの監視のもと料理を作る誓約書を書かされる。悪ければ今後、絶対に作らせない。多分そういう結末となるだろう。
しかし、アーネストの予想は、斜め上の方向へ外れた。ロバートの殺気がなくなったのだ。
「そうか、俺のために」
ふっ、と小さく笑顔を作り、うれしそうな表情をするロバート。その顔を見てアーネストは「ちょっとあんたもしかしてこれの匂いにあてられたんすか!?」と、大声で叫びたくなる程度に驚くべきことだった。
おかしい。何かがとてつもなくおかしい。実は相思相愛だったとしてもさすがにこれはおかしい。クールを通り越して冷たいといわれるロバートさんはどこへ行ったのだと心の中でひたすら思うが、二人は薄くほほえみあっているだけだ。
「俺のために作ってくれたことはうれしいが、さすがにこれは無理だな」
ほほえみながらロバートは言う。ああよかった。彼はまだ正常だとアーネストは心の中で安心した。しかし、次の言葉で再び青ざめることになる。
「だが喜べ。アーネストが全部食べてくれるそうだ」
「え、えええええええ!?」
待って、何かの冗談でしょう、と右隣でほほえむ男性に声をかけるがよかったなと返してくるだけだった。
「あら、アーネストが食べてくれるのね。大丈夫よ。あなたならいつも実験台になってくれてるおかげで耐性はついてると思うから」
にっこりと笑顔を向けて、アーネストの皿にロバートの分が追加された。
これは確実に死ぬ。そう思ったアーネストは椅子をひっくり返しながら立ち上がって逃げ出した。
数時間後、ロバートに捕まり、ジェシカの作った食事を食べたことで青い顔をして寝込むアーネストの姿が確認されたという。