絵描きの夢
しばりつけられています
私には夢があった。遠い昔、幼い頃から心の中に留まっていた、淡く清らかで純粋な願望。
それは年齢を重ねるにつれ輪郭を浮かび上がらせ、今でははっきりと言葉に表せるものにまでなっている。
それほどまでに、この胸の内にある望みと言うものは強いのだ。
だが、そのような強い思いを抱いて数十年、未だに悲願は果たされたことがない。
生活が私の望みを少しずつ遠ざけていったのだ。それはまさしく、弱き民から財をむしり取る、政治家そのものであった。仕事、結婚、子育て。世の人間が願ってやまないささやかで幸福な日常生活を送るたび、私の望みは確実に遠のいていく。生きていくためのとりあえずが、この野望を蝕んでいく。
守らなければ。この思いは、決して日常というものごときに押し潰されてしまうほどか弱くはないのだ。そう。この願望はずっと私の中にある。未だにその願いが叶っていないのは、日常が邪魔をしているからとはいえ、いつかは叶うものなのだ。
いや。叶うものであれば今、叶えるべきだろう。私は長年、それを成就するために動き続けてきたのだ。今ならまだ、この望みは叶えられるかもしれない。
「で、便利屋である私に仕事の依頼をした、と」
私の前の椅子に腰かけていた人物が私の話を聞き終わると静かに、そう言ってきた。黒い髪を後ろに撫でつけ、質の良い黒いタートルネックと黒いスーツパンツの全身黒づくめの人物だ。薄い黄色がかった緑の瞳を細め、見るからに胡散臭そうな顔を私に向けている。お前の方がよっぽど胡散臭い職業であり、出で立ちであり、顔をしているというのに。失礼極まりない話だ。
しかも、そのあとすぐに「まあ、どんな依頼でも報酬次第で受けましょう」などと口の端をあげて笑っているではないか。私の願いを聞いておきながら、馬鹿にしたような態度。噂には聞いていたが便利屋というものはつくづく人としての何かが欠落しているように思える。私の思いを理解し得ないのだから。
だが、彼ら以外に私の願いを叶えられるものはもういないのだ。私一人ではおろか、妻や我が子に協力してもらっても、到底叶いはしないだろう。便利屋くらいしか、私の願いを叶えられるものはいない。
「金ならいくらでも払ってやる。いや、安全とやらも保障してやろうじゃないか。失敗してもお前と私は一切かかわりのない赤の他人だと言っておいてやろう」
「ああそれは、結構なことで」
便利屋はくつくつと、実に愉快だと言っているような笑いをこぼした。低いざらざらとした掠れ声が立てる笑い声はまるで蛙が地面から這い出しながら鳴いているようだった。まったく、品の欠片もない。
「では、貴方の望みを叶えるといたしましょう。私はこれでも仕事は完璧にこなす人間ですので」
そういうと、便利屋は出て行った。
ぎい、と扉が開く音はまさしく、悪魔と契約を交わしたような、重苦しい音が響いていた。
────
スピーカーから流れる音楽を聴きながら、ニコラス・ヘクターはゆっくりとカップに口をつけていた。途端に紅茶のかぐわしい香りが口いっぱいに広がりあとから遅れてミルクのまろやかさに包まれた紅茶独特の渋みと甘みが舌の上を滑っていく。
仕事終わりに一杯のミルクティー。贅沢ともいえるひと時をカフェ・アンブローズで過ごしていた。
「ニコラス、今日はご機嫌ね。何かいいことがあったのかしら?」
ことん、と、サービスとして持ってきたフィナンシェの皿をテーブルの上に置きながら、ここのカフェの店長、ジェシカ・アンブローズこと通称イェシカが話しかけてきた。ニコラスは後ろに撫でつけていた髪をぐしゃぐしゃと搔き乱しながらジェシカの質問に答えた。
「そうだな。あったといえばあったな」
「あら。そうなの。と言うことは良い仕事だったのね」
「もちろん。報酬はたんまり。口の堅い依頼人様で何より面白い話を聞けたな。……けど俺向きじゃなかった」
「あなた向きじゃなかったら誰向きだったのかしら」
「そうだな。……お、ロバートいいところに」
そう言って店内に入ってきた男に向かって話しかけた。ロバートと呼ばれた男はじっとりとにらみつけるような目でニコラスの方を見た。
「なんだ」
「お前が好きそうな話があるんだ」
「俺が好きそうな?」
「そう。ある男の話さ」
ある男には夢があった。幼いころから長い事あたため続けた夢だ。今までは叶えられなかったけれど、ようやく叶えられそうになった。準備が整ったのだ
夢を男は便利屋を雇った。そして便利屋に依頼した。私を高いところに括り付けてほしいと。
さて、その男はどうして高いところに括り付けてほしいと便利屋に頼んだと思う?
「思考実験か何かか?」
ニコラスの話に、ロバートは興味を持ったようだ。ニコラスの反対の席に座って考えるような顔をする。
「そうだな。ただ、括り付けてほしかっただろうか。手段自体が目的だった。これは往々にしてよくあることだ」
「あるいはストレスから、かしら? どうしてもしんどくなってそんなことをしちゃっとか」
「いや、それだと幼いことからの夢を無視する形になる」
「あら、確かにそうね」
コーヒーを持ってきたイェシカも話に加わり、二人はああでもないこうでもないと話をした。そこに店員のアデルも加わり(アデルは男はランプになりたかったのだと主張し続けた)話は大いに盛り上がった。
だが、どの話をしてもニコラスは胡散臭い口の端だけを上げた笑みを浮かべ、首を横に振るだけだった。
「一体、その男はお前に何を頼んだんだ」
思い付く限りの答えを言っても不正解。そのことに不満ではなく純粋な好奇心がロバートのなかにわいてきた。話に出てきた便利屋というのはニコラスの事だとわかっていたのもある。ロバートはテーブルの上に身を乗り出したい気持ちを拳を握りしめることで抑えながらニコラスに質問した。他の二人、イェシカとアデルも答えが知りたいのか熱烈な視線をニコラスに送っている。
「絵をかくためさ」
「絵?」
「絵なら普通に紙とペンをもって、描けばいいんじゃないかしら」
「そうだな。そうすればいい。だけど、男の中ではこうなってたんだ」
幼い頃から、絵をかきたいと思っていた。そう。直線や曲線をキャンバスや紙の上にかいていくあの絵だ。男はそれをかきたかった。プレスクールにいた頃のことだ。友人が楽しそうに絵を描いていたのを見て、自分もかきたいと思っていた。
だが、何をかきたいかが一向にわからなかった。想像の中の自分はずいぶんと楽しそうに、鼻歌をうたいながら筆を走らせ絵を描いていたというのに。
肝心の絵が、その想像のなかですら浮かびあがる気配はない。そのためいつまでたっても絵はかけなかった。義務教育過程が終わり、大学へ入り、どこかの会社へ入ってから今の今までずっと何も浮かばない、想像の青写真。
どうすれば絵がかけるのか。男は悩みに悩んだ末、あることを考えた。
「それが自分の体を高い所に括りつけるだったったってことさ」
その男の話をし終えたニコラスは目に指を入れ、カラーコンタクトをとりはずした。黄色がかった緑色のコンタクトを取った瞳は月のように黄色かった。
話を聞いていたロバート、イェシカ、アデルの三人はどれも納得のいかない顔をして、ニコラス・ヘクターの変装をといた、ニコル・ゲーサという人物の顔を見つめていた。その様子にいたずらが成功したときのような爽快感が胸の中をくすぐっていた。こういう話は絶対、乗ると思っていたし、答えを聞いて酷く落胆すると思っていたんだ。
「別に絵を描くだけならその辺の風景を描けばいいだろう」
「そうね。彼は絵を描く自分に憧れていただけで絵は好きではなかったのね」
「ランプじゃなくて、ランプの青い影になりたかったの?」
「で、高い所に括りつけられて、男は絵を描けたのか?」
ロバートの質問にニコルは手のひらをひらひらと動かした。
「描けてるんじゃねえの? 一応教会の鐘の柱に縛りつけたら大声で素晴らしいとか言ってたし。それと興奮してる間に絵画教室にぶちこんどいたし」
今後の結果に期待ってやつかねえ。そういうとすっかり冷めてしまったミルクティーを一気にあおった。
後日、ある町のある男がある絵画コンクールで賞をとった。
その絵は町を高い所から見た風景画のようで、解放感がありながらもどこか窮屈さを感じさせる不思議な絵になっていた。
描いた男の話によると、教会の柱に自分を括りつけてみた経験を生かして描いた作品だという。
ある男の願いは一応、叶ったというわけだ。