脳内ノイズ
※ トニーの話。流血表現があります。
俺の頭のなかはいつだって賑やかだ。
仕事の書類、上司の忠告、部下の寄声、業務のスケジュール、他の部署からの依頼、破られたテスト用紙、細い森の奥に繋がる小道と捻れた林檎の木、ライラックの甘い香り、幼い頃同級生から渡された壊れたおもちゃの兵隊。現実での出来事から自分の中で作り上げられたイマジナリーのものまで。なにもかもが瞬時に頭の中をかけっていっては帰ってくる。それはさながらおもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さだ。あるいは、デジタル文明が発達する前の繁忙期のオフィスとでも言えばいいのか。とにかく、賑やかで騒々しい。
何回かそれらを整理しようと考えた事はある。が、どれもこれも上手くいくことはなかった。一つの事象を整理しようとすると、片付けてできた隙間にすかさず何かが入ってくる。それが一つか二つであればまだ整理ができただろう。だがそういうものは基本、二十、三十と数が多い。捌ききれなくて困る。
カウンセリングを何度か受けたことはある。が、それもあまり役には立たなかった。あなたの仕事量は他の方よりもはるかに多い。その若さでそれだけの責任ある事をしているのだからストレスがかかるのも不思議ではない。仕事の量を減らしてみては? マネジメントを誤っているのでは? そう進言されたことすらある。できるのならやっている。できないからこそカウンセリングに通っているとも言える。お陰で毎週、カウンセラーにお世話になる始末だ。
そう思うと、この行動はある意味、一度頭の中をすべて捨てるためにしているのかもしれない。詰め込まれ身動きのとれない情報過多の頭の中を、洗いざらい流しだし、まっさらにする。そして必要なものだけを残す。
「我ながらこれはどうかと思ってはいるよ。だがこれのおかげで助かっているところもある。例えば、俺をけしかけにきている男を返り討ちにするときとかな」
俺はタバコをひとつ取り出して火をつけながら倒れている男に話しかけていた。男は俺の職場のカウンセラーだ。正確に言うと元がつく。名前はビル。ビル・フィル。スパニッシュ系のアメリカ人。やや筋肉質な体格で、口元と目元が不釣り合いなところが違和感をおぼえる眼鏡をけた男だ。カウンセリングルームへいくと必ず「ハーイ」と笑わない目と端のあがる口で出迎えてくれた。今となっては懐かしい話だ。残念でもある。彼は今回、俺の仕事のターゲットであり、裏切り者でもある。
「お前はよくいっていたな。普通の人間は、そこまで頭の中がうるさくないと。俺は考えすぎで、いちいちそれらを溜め込んでいるから爆発するのだと。大層羨ましいよ。お前は俺たちをいかに潰すかだけ考えて、それだけの情報しか留めようとしないのだから」
男からは返事がない。当たり前だ。顎が外れている。
他にも、腕は本来曲がらないところが曲がっている。より詳しくいうと、肘と手首の間の骨が折れている。
「だが俺がこの爆発をどこに活用しているかは考えていなかったようだ」
思ってもみなかっただろう。どちらかというとストレスフルでいつも胃薬を片手に持ち、ほぼ毎週のように顔を合わせていた人間が、裏切り者のもぐらを見つけては処理をするような存在だったなど。
「知っているかとは思うが、うちはあまりクリーンな職場ではなくてね。よくも悪くも脛に傷を持つ輩が多いんだ。……お前もその一人だったな」
俺が働いている会社は、表向きには社会復帰を応援する製薬会社だ。逮捕歴や補導歴、そんな後ろ暗いものがあった人間は悲しいことに社会に復帰できないことが多い。また犯罪を起こされたら困ると言われ、後ろ指を指されて生きていくことになる。当然、信用はないので仕事はない。そんな人間がもう二度と犯罪に手を染めないよう支援している。人並みの給料を与え、常にカウンセリングが受けれるよう、カウンセラーが常駐。監視のために市警も州警も、果ては情報局や麻薬取締局まで出入り可能だ。福利厚生にも力を入れている。
そしてこの男は飲酒運転及び轢き逃げで逮捕され、前の職場を追い出されたらしい。この街の社会復帰プログラムを受けて入社してきた。カウンセリングの時いつも「人を轢いてしまうからストレス発散にお酒を飲むのはおすすめしませんよ」と自虐の冗談を言っていた。ここに拾われて良かったとも言っていた気がする。が、全て彼が作り上げた嘘の仮面である事を知っている。そうこれは表向きの話だ。
本来この会社は、足を洗いたいギャングやマフィア達が初めた事業だ。
当然、切り離すことが出来なかった確執や恨み妬みが潜んでいる。そのためか産業スパイや職員を狙う輩などが多く、数年前に社長の親戚が殺される事件も起きた。もう二度とそういうことがあってはいけないと、社長が命令してできた。社員の監視、場合によっては排除を行う仕事。それが俺のいる部署、通称トラヴェルこと人事管理部だ。
それで目の前で倒れている男は、ある裏組織に雇われたスパイ。本来仕事のカウンセリングルームだけでなく、他部署にまで顔をだして情報を集めていたことはすでに何人かから話は聞いている。他にも会社の見取り図を渡していること、開発中の薬に関するデータのハッキングもやっているようだ。全てこちらが偽装したデータなのだが。
「残念だ。ミスター。このまま腕のいいカウンセラーをしていれば、ただの良き相談相手であって、不幸にならずにすんだのに」
コンクリートの床をたたく堅い靴の音がひとつ。
二歩目には男のくぐもった悲鳴が足元から聞こえていた。
「よくやったトニー。ご苦労。あとはファニーに任せて帰るといい。アーネストが送ってくれるだろう」
連絡をいれて数十分、上司のジェフリーが部下を数名引き連れてやってきた。彼はすぐに押し黙ったような顔で周囲を一度見渡し、俺の全身の状態を観察するとそっとため息をつく。
「流石に話ができる程度に留めなさい」
「すまないジェフリー。暴れる時はどうも記憶が曖昧で」
「わかっているとも。さあもう帰りたまえ」
そう言って肩を一度叩くと、ジェフリーはビルの元へと去っていく。アーネストが「お疲れ様です。どこか寄りますか?」と言うので「流石にこの格好でどこかへ寄るのはまずいだろう」と伝えた。それもそうですねと返ってきて車を向こうへ停めているから案内すると言う。俺は彼の後ろをついて歩いた。
明日は起きてすぐに報告書を書かねばならない。帰ったらシャワーを浴びて夕飯を食べるとして、ニコルが来ていたら厄介だ。それ以外にもビルの顔、ジェフリーのため息、父親のこんなこともできないのはお前が出来損ないだから仕方ないと言う声。薄暗く冷たい自分の部屋。湯が張られたバスタブ。他にも色々なことが頭の中を駆け巡る。
ほら、もう頭の中が賑やかだ。感情のサーカス。重要事項まみれのトイボックス。記憶のゴミ箱。表現できないほどの賑やかさだ。今日は早く眠れるだろうか。睡眠薬はどこにしまっていただろうか。
車の前まで来る。俺は後部座席の扉を開けて乗り込むと、少しでも頭の中を落ち着かせるため目を閉じた。