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床上の茶番

 服一枚通り越して感じられる床の冷たさに息をのむ。さすがに、今の自分には身体に堪えるものだった。

 そして、いつになればこの感覚はなくなるというのだろう。あまりに長いこと床に仰向けになっているというのに、いまだにそれは続いているのだから。
 このまま、手先、足先、服におおわれていない部分から少しずつ、まるで氷が溶けるかのように、なにもかもなくなってしまえばいいのにと思う。

 そう、意識を失ってしまえばいいのだ。そうすれば、今の感覚はなくなって、次に感覚が戻ってきたときはベッドのうえ。もしくはそのまま意識は戻ってこない。そうなってしまえばいいのだ。

 しかし、そんな思いとは裏腹に感覚は研ぎ澄まされていく。
 床のかたさ、冷たさと、腹部の焼けるような痛み。むせかえる血の臭いと、今にも絶えてしまいそうな自分の呼吸。凍ってしまったかのように冷たくなった身体の先。

 

 失敗したな。

 

 声にならない声で呟く。失敗した。本来怪我をしない部分で、自分は負傷してしまったのだ。

 依頼があった。殺してほしいやつがいると。

 自分の仕事は、よく、そういった仕事がくる。当たり前だ。自分は殺し屋で、誰かを殺すことが仕事なのだから。
 それで仕事をこなして、負傷した。依頼通り殺してほしい人間を殺すことができたが、相手も馬鹿ではなかったという話。いつか殺される可能性を考えて、ボディガードを三人つけていた。

 相手を逃がすやつと行く手を阻むやつとニコル自身を殺してくるやつ。三人は一人一人明確な役割を持っており、その役割を忠実にこなそうとしてくる。この中で一番強かったのは逃がすやつだ。

 

 もし、他の二人が倒れた場合でも、こちらを返り討ちにできる強さと、主人の安全が確実に保証される経路を考えられる頭脳が必要だからだ。殺すことしかしない人間より、人を殺せる能力がある。だからこそ、そのボディガードの思惑にはまり、隙だらけだと感じて十数メートル先のターゲットを殺そうと銃を構えた瞬間に、横腹にきた衝撃は大きかった。まさか、自分のすぐ横の扉に隠れているとは思わなかった。

 だが、その衝撃を食らったあとも、そのボディガードを倒し、逃げようと必死にもがくターゲットの頭を吹き飛ばすことはできた。
 結果、仕事が達成できたなら、なんだって良いのだ。それをニコルはよく知っていた。

 依頼主は自分のことをなんとも思っていない。死んだら金がういたと喜ぶだけ。あとは自分の仕事が達成した満足感で死ぬか、運よく生きるかだ。

 

 ああ、しかし、それでも、死ぬのならここではなく、あそこがいい。

 そう思い、今に至る。

 埃と、かすかなタバコの匂いと、よく知らないし憎まれ口を叩いてくるにも関わず、自分を追い出しもしない男が住むこの部屋に。

 

「ここで死なれると困る」

 

 急に冷ややかな声が降ってきて、ニコルは自分が目を瞑り、気絶していたことに気がついた。
 瞼が重い。鉛がのったかのような重さを感じながらも、なんとか目を開けると、暗闇の中にぼんやりと、くすんだ金色が見えた。

 

「つれねえの」
「本心だ。息があるのなら出ていってくれ」
「生憎、もう指一本動かすこともできねえよ」
「口は動く癖に?」

 

 その声も、もうかすれて音になっていないことに、この男、トニーは気づいているはずだ。
 それでも、動けるはずだと言っているのだから、本当に人が悪い。

 いや、本当は悪くない。普段通りにしたいだけだ。ニコルはトニーのが震えていたことに、はじめから気づいていたのだから。
 そう。自分たちは普段通りにすればいい。
 これがお互い、下手な芝居であったとしても、自分たちはこれくらいが丁度いいのだ。

 

「あー。明日はチャイニーズが食べてえな」
「お前と食べるのはあまりおいしく無さそうだ」

 意識はゆっくり沈んでいく。夢の中に落ちるように、生暖かく、優しい海に沈みこむように、輪郭が徐々におぼろげになるように、ゆっくりと消えていった。

 本心は言わない。必要ない。自分の最期はこれくらいが丁度いい。

 いや、むしろ最高の最期だった。

「本当に、死なれたら困るんだが」

 トニーの素の声音が聞こえ、それと同時に意識は途切れた。

_________

 

「で、一週間寝込んどった感想は?」

 

 不貞腐れた表情をして、ニコルは天井を眺めながら、イアンの声を黙って聞いていた。
 真っ白な天井と、透明な液体が入った袋。その袋の先には管のようなものがついていて、ニコルの腕やらなにやらに突き刺さっている。
 不快な電子音も聞こえており、その電子音は自分の心臓のリズムとまったく同じリズムをうっている。

 ニコルは今、病院にいたのだ。

 

「なんていうか、感動的な最期だったと思うんだよ。映画ならあれは死ぬところで、後日愛する人たちが墓の前で思い出語るすシーンがあったはずなんだよ」
「映画ならですね~。けど現実は違いますんで。ここは病院。ニコルさんは普通に生きてて一週間寝込んでただけ。そもそも運ばれた時から命に別条なかったんで」
「現実は理不尽だなあ」

 意識がなくなったあと、どうやらトニーは医者のイアンの元へ連絡をいれたらしい。

 床が汚れる上に掃除に困るからが主な理由で。

 最低限の止血をして運び、あとはよろしくとイアンの父親の病院に放り投げ、彼はさっさと次の仕事のために東南アジアへとんだとかなんとか。

 ニコルが目を覚ましたとき、それをイアンから告げられ、最初はそう言いながら心配してたんだろ。かわいいことをするものだと笑っていた。しかし今は腹立たしさしかない。

 三日めから今まで熱でうなされていたし、腹の痛みは麻酔が聞いているにも関わらず痛いし、さっさと仕事に復帰しないとといいながら、ニコルにリハビリを始めようとして無理をさせてまた傷が開いたし。
 踏んだり蹴ったりな一週間だったのだ。

 あのまま死んでおけば起きなかった災難が、あいつの都合だけで起きてしまったし、しかも本人には何一つ都合が悪いことが起きていないのだ。これを、憎いと思わずなんとする。

 帰ったらあいつ、許さねえ。
 今朝までの出来事を考えながら、ニコルは暖かく柔らかなベッドの上で怨嗟の声をうめき出していたのだった。

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